12 六萬寺

牟礼町田井、琴電志度線六万寺駅の真北にあり、後ろには五剣山が聳えたち風格のある古刹である。

この寺はいつ訪ねても、ひっそりとして静かな寺である。

昔は水商売の人に信仰があつく、明治の初めから大正の末頃までは、高松の料亭の名や、名妓の名前の張紙が貼られていた。今でもその名残りが所々に見られ、在りし日の繁栄の跡が偲ばれる。

六萬寺は、真言宗善通寺派の名刹で、初めは国豊寺と称していたが、のち六萬寺と改称した。旧事は、6万戸の檀徒をもち6万躯の鋳像を安置し、牟礼大町区域に42の支院を持ち、七堂伽藍がそびえたった大きな寺であった。丹蔵寺・戒法寺・洲崎寺、池の坊・観音寺・西方寺・登蓮坊などは、その支院であったが現在は廃寺となった寺もあり、ただ地名にその名を残すのみの寺もあって、往時の面影はない。

草創は行基の建立といわれ、延暦年間弘法大師がここで千手観音を刻み、八栗の嶽に安置した。大同年中に大師が中国より帰朝後は、八栗寺を六萬寺の奥の院とした。 

寿永2年(1183)秋9月安徳天皇が6才の時(寿永4年入水の時は8才)太宰府から屋島へ臨幸されたが、内裏がまだ完成していなかったので、ひとまず六萬寺を行宮とした。その年の閏10月3日、平家の公達はそれぞれ歌を詠じ、みんな自筆で寺の壁や障子に書きつけたが、惜しいかな沢山あったそれらの歌は消え失せて、それでも次の三首だけが伝えられている。

嬉しくも遠山寺にたづね来て    

    後のうき世をもらしつる哉  本三位中納言平重衡 
    

いざさらばこの山寺に墨染の     

    衣の色を深く染なん     経寿房阿遮梨祐円

世の中は昔語になりぬれど

紅葉の色は見し世なりけり  兼但馬守平経政

寿永4年(1185)屋島の合戦で佐藤継信が戦死したが、義経は、六萬寺の僧に頼んで継信の遺体を近くの宇龍ガ丘の麓に葬った。そしてこの時武具などはこの寺に寄進した。

また義経は戦勝の願書を書かせて六萬寺に納め、弁慶・伊勢三郎義盛らの形見の書も残しておいた。このことから六萬寺は源平両軍にとって縁りの深い寺であるといえる。

下って元徳元年(1329)高松頼重が本地堂を建立、応安2年(1369)管領細川頼之は、先の将軍義詮の菩提のため金堂の仏像を再興した。

ついで戦国時代になり、天正11年4月(1583)八栗城を攻めた土佐の長宗我部元親はここを本陣とした。

ところが、寺を発って八栗城へ向かう途中部下の放火により、六萬寺は建物から寺宝などすべて全焼してしまった。元親は見せしめのため、部下桑名太郎の配下二人を斬ったのは有名な話である。 

屋島は源平合戦の頃は、陸地から遠く離れていたので、平氏は安徳天皇の安住すべき内裏や、将兵たちが兵営とする設備とてなく、ひとまずここ牟礼の六萬寺を仮の行在所とした。

この長宗我部の宿陣した時の料理が、ちょっと風変わりであったので、今日でも「六萬寺」という料理の方法が、高松をはじめ近郷近在のものに言い伝えられているという。

この寺は大きい化石があることから、化石のある寺としてもよく知られている。





眉間山白豪院 六萬寺  平成14年4月 復刻





本 堂




本堂より屋島を望む




鐘 楼




山 門




山門付近の遠景