13 洲崎寺

牟礼町浜北にあり、高野山真言宗の寺である。

このあたりは寿永4年の源平合戦の時は、両軍交戦の激戦地であったから、本堂・庫裏などの建築物はすべて兵火により焼失してしまったが、本尊と霊像だけは災難を免れた。

本尊の観世音は佐藤継信の守本尊であったもので、中国製の瑪瑙石に刻んであった。

能登守教経の矢によって佐藤継信が戦死したのを義経はいたく哀れんで、丁重に葬ろうと思ったが戦場のこととて何の設備とてなく、寺も焼け落ちてしまっている。
仕方なく義経は寺僧に命じて焼け残った洲崎寺の本堂の扉の上に継信の亡骸を乗せて、牟礼高松付近に運んで葬らせ、この本尊の観音像は洲崎寺に寄進した。
同寺は、源平合戦のため全焼したが、義経が凱旋の時、あちこちの神社仏閣を焼いたことを悔いて、洲崎寺を取り敢えず再建した。ところが天正年間の長宗我部来攻で再び烏有に帰したが、それを元禄12年(1699)に再興した。

なおこの寺は、源平合戦当時は現在地から100メ−トル位東にあり、現在、寺屋敷と呼ばれている田圃の所であったそうである。
すなわち、総門より少し東の牟礼浜辺りでの合戦では、源平両軍が押したり、引いたりして死闘を繰り広げた近辺であり、佐藤継信が義経の身代わりとなって、教経の矢によって戦死したのもこの近くであった。





本 堂




鐘 楼