17 菜切地蔵
 

佐藤継信や太夫黒の墓の南、JR高徳線の線路のすぐ上の丘の上に、小さな地蔵堂がある。

この堂の中の石仏の配列は昔とかわり、右側に室町以後と思われる白子石の変形的な五輪塔、中央に庵治石の延命地蔵、左端には弘法大師の石仏が祀られている。

地元の人は右の五輪搭を菜切地蔵さんと呼んでいる。  

昔、源平合戦のときこの丘の上で合戦の作戦中、丁度朝飯時であったので、弁慶は辺りの菜っ葉を採ってきて、自分の長刀をもつてこのお地蔵さんの背中を俎板代わりにその菜っ葉を刻んで汁をこしらえ、主人義経に供したという。

義経がまづ「弁慶がこしらえし菜は武蔵坊」と言えば、弁慶が早速これに応えて「それを知りつつ九郎判官」と返したとかいう。 

これは、「全讃史」による弁慶に関する伝説であるが、この石地蔵は今は無いけれども、菜切地蔵が王墓(景行天皇の皇子神櫛王の墓)の南の丘の上にあり、この辺り一帯を菜切地区と言っている。

しかし、「なきり」の地名の由来については、当時多数の熊野水軍の船がこの浦に繋船されていて、この船を波切船(ナミキリフネ)と呼んだためとも言われている。

いわゆる菜切地蔵というのは、口伝では大分前に阿波に移ったということである。















地蔵堂前の石仏は菜切地蔵ではない。
左端は地蔵・中央に不動明王・右端は観音さんとそれぞれ相違する。