25 駒立岩 |
洲崎寺の北、県道牟礼庵治線が宮北の旧道と交わるところにある祈り岩のすぐ北の川の中に、「こまたて岩」という小さい石碑がある。 潮が引いた時に頭を表わす程度の低いが大きな岩で、扇の的で有名な那須与市宗高が、この岩の上に駒を立てて扇の的を射たのだと伝えられている。 与市宗高は下野の住人で、資隆の第11子宗隆余一郎といわれている。(宗高・宗隆・助宗と色々伝えられている) 射術をよくするので義経の命を承り、十二束三伏の鏑(カブラヤ)をつがえて「ヒョウ」と射ると、矢は見事扇の的の要を射て、源氏は箙を打ち鳴らし、平家からは舷を叩いて大喝采を受けて、その名を後世にまで残した。この時、竿の先に扇を縛りつけ指さし招いたのは、平家方の絶世の美女玉虫の前であった。
(註)十二束三伏の矢とは 一束は握りこぶしの幅約9センチメ−トルの長さ 三伏は3本の指の幅約6センチメ−トルの長さ したがって、約114センチメ−トルの長さの矢のこと
扇が見事海に飛び散った後、これを誉め讃えて船上で平家の伊賀十郎衛家員が、薙刀を持って踊り始めた。これを見た源氏の伊勢三郎義盛が、義経の命であると、与市にその武者を射殺させたという。 これが事実なら、屋島の源平合戦における、源氏の一大汚点というべきであろう。 与市は扇の的の功績により、5つの庄を拝領したと伝えられているが、合戦後間もなく義経が失脚してから故郷に帰ったものの、伊賀十郎衛を射殺したのが原因であったのか、兄弟に受け入れられず、剃髪して京に上り、伊賀家の菩提寺即成院で往生したという。没年は21とも24ともいわれている。
川 柳 美しき虫舟べりに出て招き 玉虫は危ない役を言いつかり 首ばかり出して玉虫眺めおり 玉むしをよけてねらうが要なり 顔見い見いよっ引いてひょうと射る ほめられて与一も鎧しぼるなり 時ならぬ花や紅葉を見つる哉 吉野初瀬の麓ならねど 扇をば海のみくつと那須の殿 弓の上手は與市とそ聞く 屋島檀之浦扇の要 那須與市にや泣かされる
(註)海上に飛び散った扇が流れ流れて、高松市の沖の島に流れ着いたので、その島を「おうぎ」島(男木島)と言うようになったと、牟礼町の故老に聞いたが、この言い伝えはこじつけであろう。 |