26 弓流しの跡

弓流しの跡は、牟礼町の洲崎寺の西南100メ−トル程の相引川の辺りで、現在は陸地となっている。石標はそこより約30メ−トル西にあったものを、県道沿いの現在地に移転したもので、牟礼町が建てた案内板は洲崎寺の南にある。

また、高松市屋島東町藤目にも似たような案内板があり、弓流しの跡はここであると書いてある。

どちらが本当の場所か判らないが、義経が2回も海上に弓を落としたとは思えないので、あまりにも有名であるため、両者が贔屓してこのようになったのだろうか。

牟礼町のこの辺りは、合戦の時激戦地であったから、ここが弓流しの跡でなかろうかと思うがどうであろう。

錣引きの変事があって後、平家は約100名が上陸して戦った。源氏は80余騎で馬の太腹まで乗り入れて、これに攻撃をしかけると、平家はひとたまりもなく海上へ退却したので、義経は勝に乗じて海中に打ち入り戦ううちに、脇下に挟んでいた弓を海中に落した。義経は必死で馬上からそれを拾おうとするし、平家方は熊手で義経を引っかけようとする。

源氏の兵はそれを見て、「その弓捨てさせ給え」と叫んだが、義経それに耳をかさず、やっとのことで弓を拾いあげた。

戦いが終わって部下たちが、

「たとえ千金の値がしようとも、総大将たるものが命を軽ろんずるようでは、勿体無いことよ」と諫めると、

「三人張り五人張りの叔父為朝ほどの弓であったならば、わざとくれてやってもよいが、こんな弱い弓では、これが源氏の大将の弓かと嘲笑をうけると、源氏の名折れになる」

と言ったということである。

なおこの時、義経めがけて熊手で攻めてきたのは、平家の勇将越中次郎兵衛盛嗣という武士であったと、源平盛衰記にある。




牟礼町の案内板 「弓流しの跡」





屋島東町の案内板 「義経の弓流し」