47 船隠し 

この所は源平合戦の古戦場として、人口に膾炙されている名所である。
普通は庵治浦西海岸の南の狭い海岸をそうよんでいる。 

ここは屋島の対岸に聳えたつ五剣山の西麓ある入江で、平家の軍船の集結地であり、また寿永2年(1183)9月から、同4年2月まで1年半の間の平家の本陣であったと伝えられている。 

しかし、庵治村史にも述べているように、平家の主力何百何千の大きな軍船の船溜まり、そして兵士や水夫たちの住居、さらに遠見番所人の住宅など、それらが全部ここに有ったとは思われず、この浦をはじめ久通山・庵治本浦、東の鎌野から沖の大島、兜島をふくめて庵治の里全体が船隠しであったとするのが、常識的な見方であろう。

いわゆる船隠しの地は、特に「能登守の船かくし」といわれ、南側に小さい山があって、その山かげになり、西の屋島の本営からは、ここに船を着けると全く見えない。

西と北は海になっていて、源氏の軍船が屋島の本営を攻撃するとなると、これを迎え撃つには絶好の地である。

現在のように飛行機・ヘリコプタ−も無かった時代としてはこのうえない天然の船溜まりであった。能登守の船隠しと呼ぶのは、平家指折の猛将能登守教経に属する軍船がここに居たからである。

ここを西に廻ったところを「米はかり」と呼んでいる。
この地は平家全軍の兵糧を集めた所で、ここで米をはかって、浦々島々に散らばっていた数万という平家の将兵に、食糧を配ったといわれる。




船隠しより屋島を望む