3 安徳天皇社 

屋島東町檀浦、コトデンバス菊王丸バス停より北へ200メ−トルにある。

寿永2年(1183)一の谷の合戦で大敗を喫し屋島へ逃げた平宗盛が、郡司に命じて造営させた幼帝安徳天皇の行宮跡。この地は地勢東向で険阻を後にし、曲浦を前にして蒼海を左に平陸を右にして繋舟の便を得たところである。

日本史に菊池胤益「運阿波材造行宮於屋島」とある。

源平盛衰記に当時の光景を述べて「判官下知しけるは、平家は大勢なり味方は未だ続かず、敵内裏に引き籠りて出会々々に戦はんには、由々しき大事。其上兵船海上に数知らず、屋島の在家を焼払ひ、一方に付けて攻むべしと言ひければ、条理を立てて造り並べたる在家、一千五百余家ありけるが、軍兵家中に火を放つ。折節西風烈しく吹き、火内裏に覆ひ、一時が間に焼亡せぬ。余烟海上に浮きて雲の波烟の波と紛れけり。」とその内裏付近の状況を察することができる。

 

 ほととぎす鳴くや屋島の内裏跡    不如帰

 

その焼失した内裏跡に建てられた社殿が、安徳天皇社である。

長年月の間風雨にさらされ酷く傷んだので、10年程前に有志・関係者等で再建された。