50 義経の十二本松

 

屋島の源平合戦における最後の戦いが繰り広げられたのが、志度の浦・房前の浦・玉の浦と呼ばれる、志度寺裏か東へ約100メ−トルの松が崎の辺りであった。

屋島の檀ノ浦の戦いに敗れた平家は、勢力を挽回せんものと八栗半島を迂回して、寿永4年2月21日未明志度の浦に上陸し、兵を配し背後から屋島の源氏を突こうとした。

義経のもとへは、伊予の河野水軍30艘をはじめ、出発が遅れた梶原景時が140艘の軍船を率いて参加した。屋島に残り留まっていた200騎も志度の浦に到着。また、源氏に帰服する者も加わったので、平家は敗北感に打ち沈みながら長門の壇の浦さして落ちていった。

この時、撤退の軍船に乗り遅れた平国盛は、吉野川を遡って阿波の祖谷山に隠遁した。

ここに十二本の松が植えられたのは、志度寺古文書に、「義経公阿国勝浦より兵十二騎を引率してここに帷幕を張り長策をめぐらす」とあり、一騎毎に一本の松を植えたとしていることからである。また、三代物語に「松ケ崎十二本松志度にあり云々」とある。

現在ここの松は昭和50年頃、松喰虫によって全部枯れたが、代わりの松が植えられている。またここは多和神社の御旅所となっている。