屋島源平合戦のあらまし 
 

はじめに

平家は寿永3年正月屋島を船出して摂津福原(神戸)に進出したが、その年の2月7日源義経の奇襲に遭遇して、一ノ谷の戦いに敗れ、屋島に撤退してきた。

平能登守教経は軍船を庵治の船隠しに繋船し、同村の東の鎌野集落に見張り船を置き、所々に見張り番所を作り、牟礼高松(現高松町)の海岸に柵を設けて源氏の来襲に備えた。

寿永4年2月17日

源義経を総大将とする畠山重忠・佐藤継信・忠信兄弟・武蔵坊弁慶・田代信綱・鎌田光政等150騎が5艘の船に分乗し、嵐をついて摂津渡部津(淀川口)を未明に屋島に向けて出発した。

寿永4年2月18日

18日の未明(午前6時)に阿波勝浦(桂津)に到着し、平家に味方する田口良成の弟桜間良達の桜間城をはじめ、熊山城等を攻め落とし、夜中に大阪峠を越えて讃岐に入り、馬宿でひとまず人馬が休息した。

平家が海戦に持ち込むものと思われたので、源氏は軍勢を丹生で2隊に分け、本隊は田面峠を越え長尾から前田・新田へ進み翌朝屋島の対岸に進出した。支隊は海岸通りを進み志度から屋島の対岸の牟礼村の海岸に進出した。

寿永4年2月19日

辰の刻(午前8時)に屋島の対岸に到着した源軍の本隊は、牟礼高松の民家を焼き払い、堀江集落で2隊に分かれ、本隊は王墓付近に向かって前進し総門を占領した。堀江集落で分かれた別働隊は、屋島の赤牛崎に上陸し、枯木集落を通り湯ノ谷を越えて、なだれをうって、屋島に布陣する平家の背後を攻撃し、屋島の内裏や平家の陣屋を焼き払った。

総門を攻め落とした源義経は、田代冠者信綱・金子十郎家忠・金子余一近則・伊勢三郎義盛等と共に水際に駈せ向い、船上の平家と互いに矢を射合った。

檀の浦で源氏の奇襲をうけた平宗盛は、一旦海上に逃れたが源氏の兵力が弱小であるのに気づいたので、船列を整えて総門の汀で激戦となった。しかし、逆上陸することもなく19日の戦いは終わった。

同夜は源義経と伊勢三郎義盛の二人が不寝番をし、他の将兵は仮寝をした。しかし、義経は平家の夜襲があるものとして、付近の農夫を雇って松明を持たせ、つぎつぎ瓜生ケ丘に向かって歩かせた。 

 この第一日目の戦いで、

 源氏方は、佐藤継信・鎌田光政が戦死

 平家方は、菊王丸が戦死

寿永4年2月20日

この日は総門付近で一進一退の小競り合いが続いたが、あの有名な源氏の美尾屋十郎と平家の悪七兵衛の「錣引き」のあった日で、那須与一が扇の的を射た日でもあった。 

 平家方は、鞆六郎が戦死

寿永4年2月21日

平家は船を志度湾に回航し、志度寺に立て籠って陣を布いたが、志度合戦を最後に全軍が西海に去った。

源氏は追討の手をゆるめず追いすがり、間もなく起こった長門の壇ノ浦の合戦において、寿永4年3月24日平家は西海に消えた。

源氏の大将梶原景時が率いる後続部隊約140艘の軍船は、屋島に到着し志度合戦に参加した。

合戦当時の将士の年齢

   源 頼朝 38才         平 宗盛 39才

   源 義経 26才         平 教経 26才

   佐藤嗣信 28才         菊王丸  18才

   那須与一 17才または20才   玉虫前  19才