平家一門の墓

源平合戦が行なわれた屋島の東麓は、安徳天皇社の付近が最も激戦地であったようなので、この辺りには平家の将兵の墓が多いと思われるが、庵治町の場合のような個人墓は少ない。
故老
の言い伝えによると、昔、屋島の東麓を登った所の田圃を耕していたところ、田の中から丸い石が出てきたので、里人は平家の兵士の墓ではないかと、田圃の近くに懇ろに祀ったと言う。このようなことは昔沢山あったが、現在はその場所はわからないと言う。


(1)安徳天皇社境内の墓
碑 文
寿永四年二月(1185)早春、この地で繰り広げられた源平屋島合戦は、滅びゆくものの哀れと、追うものの雄々しさを描く一巻の絵物語として、今に伝えられている。
この、戦いで散ったつわものたちの墓があちらこちらに散らばっていたものを、いつのころからか里人が、安徳天皇ゆかりのこの社に集められたものを、この地へ移設のうえ供養したものである。



(2)安徳天皇社の南の墓 
安天皇社の南約100メ−トルの西の田圃の中にある。
ここは久米氏の私有地で、先祖からの言い伝えとして同氏がお祀りしている。






(3)安徳天皇社の南西の墓
安徳天皇社の南の墓より南西に入った田圃の中にある。
ここは久米氏の私有地で、先祖からの言い伝えで同氏がお祀りしている。