源義経略傳 (みちのく義経絵物語より)
源義朝は平家と戦って敗れ、東北に落ち延びていった。妻常盤は、今若(7才)、乙若(5才)と生まれたばかりの牛若をつれて、奈良の東大寺に身を隠す。

今若は観音寺に預けられ、乙若もある寺に預けられたが、後平家に戦いをしかけ捕えられる。
牛若は4才を過ぎた頃、常盤の手によって京都の山科に預けられるが、その才能をみた常盤により鞍馬山の高僧東光坊に預けられる。その頃、正門坊と名乗る源氏の落人鎌田正近に会い、父義朝が平家に滅ぼされたことを知ってから、武芸に励むようになり、16才になった頃は、遮那王とよばれるようになる。この頃、京都へ出て三条の大金持ちの黄金商人の吉次と昵懇になり、漢竹の横笛を持ち、黄金作りの太刀を腰にして京都をたち、父義朝の母の実家がある尾張の熱田神宮へ参詣して元服し、名を源九郎義経と改めた。これより吉次に従って奥州に下り藤原秀衡の屋形へ入った。
東北に居る時京都に出て、京都の五条橋で武蔵坊弁慶と出会い主従の縁を結ぶ。
その後、兄頼朝が伊豆において旗揚げと聞いて駈けつけ、平家討伐に参加して、富士川の合戦・木曾義仲と京都の戦い・一の谷の奇襲作戦・屋島の檀の浦の戦い・長門の壇の浦の戦いなどに武勲をあげたが、兄頼朝の家来梶原景時の讒言にあい、これより兄頼朝の軍勢に追われることになった。
義経の子を宿す静をともなって吉野山に逃れたが、足手まといと静を京都に帰し、密かに連絡をしていた16名の家来をひきつれて、奥方北の方と共に奥州の平泉へ落ちていった。
義経に味方する藤原泰衡が亡くなったので、頼朝は3万の軍勢でもって奥州攻めにかかったので、義経・北の方初め全員が衣川で戦死した。


桂津から屋島への道

 強風をついて寿永4年2月18日未明(午前6時)源義経は、部下を引き連れて、わずか1日と4時間で阿波桂津(勝浦)に到着した。
 別々に到着した軍船を勢合(田野町勢合)に集めて勢揃いし出発釈迦堂(田野町中須)を通過。
 峠の前方の敵を警戒して弓の弦を張ったと言い伝えがある、弦張坂を登った。
 敵兵がいないことが判ったので弦巻坂(田野町恩山寺谷)で兵に弦を巻かせた。
 将兵の士気を高めるために、小山の山頂旗山(芝生町宮の前)に源氏の白旗を掲げた。
 新居見城主(新居見町東山下)近藤六親家が手兵30騎を引き連れ源氏に協力し、屋島へ向けて先導した。
 春日神社にある「くらかけの松」(新居見町山路)のあたりで勝浦川の渡河準備をし、中王子神社(田浦町中西)の付近で川を渡り熊山城を攻略する。
 阿波と讃岐の国境の大坂峠を越えて、翌日寅の刻に引田に到着。ひとまず人馬を休めて白鳥・丹生に至る。
 丹生で2隊に別れ、本隊は田面峠を越えて長尾から新田と進み、鞍掛松(高松市高松町)あたりで休憩し、総門(牟礼町)を目指して進出した。
 丹生で別れた支隊は、海岸線を通って志度(志度町)へ出て牟礼村へ進出した。
 鞍掛松で休憩した将兵のうち一部は、屋島の内裏や陣屋を攻撃し、直ちに取って返し総門付近の戦闘に参加した。


甲冑堂物語 (福島県田村神社甲冑堂より)
昔むかし、平家と源氏が戦っていた頃の昔の話である。
当時、東北地方は、鎮守府将軍藤原氏の3代目、秀衡の治世下にあった。人々は、遠い西国の戦とは無縁の、のどかな暮らしを送っていた。
その頃、飯坂温泉(現・福島県の飯坂温泉)の近くに、大鳥城という城があって、城の主である佐藤基治には、二人の子息があり、兄は佐藤三郎兵衛継信、弟を佐藤四郎兵衛忠信と称していた。兄弟は、奥州の藤原氏に寄寓していた源九郎義経に従って西国に下り、平家討伐に赫々たる武勲を挙げ、義経の四天王として名を馳せた豪の者であった。
寿永3年(1184)、継信と忠信は、両親と心やさしい継信の妻楓・忠信の妻初音を残して、遠い四国の讃岐国は屋島へ参陣した。
寿永4年(1185)2月19日は、相引の瀬を前にした牟礼郷の渚付近での戦いであったが、この日は壮絶な合戦となった。義経は畠に立って指揮をとっていたが、そこへ平能登守教経の放った弓の矢が、義経目がけて飛んできた。あわや義経に命中というその時、側に居た継信は自分の身体を盾に、義経の身代りになった。指3本もあるという太い教経の矢は、継信の胸板を貫き義経の鎧の袖まで達したという。
 (註)継信の戦死した場所は、「射落畠」として史跡となって牟礼町にある。
その後義経は兄頼朝に追われることになったが、忠信は、義経弁慶らと共に奈良の吉野山に隠れ、敵が迫った時、忠信は義経の鎧を身にまとい、いかにも義経であるように振舞って、頼朝方の兵を欺き、義経主従を落ち延びさせた。
忠信は京の義経の館に逃げ込んだところで、頼朝の軍勢と戦ったが、もはやこれまでと、「奥州の武士、佐藤忠信の最後を見よ」と切腹して果てた。
これは、我国における切腹の初めであるという。
逃げ延びた義経一行は、頼朝に追われ人目をはばかる旅であったが、継信忠信の母や二人の妻たちに暖かく迎えられたが、兄弟の姿はなく、帰ってきたものは遺品のみであった。武門の習いとは言え母の嘆きは哀れであった。
ある日二人の妻は、亡夫の形見である具足を身につけ、母の前で、
「母上さま、われら兄弟ただ今凱旋いたしました。その様子をご覧下さりませ」
と言ったところ、亡き兄弟の霊が乗り移ったのか、凛とした声、豪勇とうたわれた勇ましいいでたちに、母も、
「あっぱれ、いみじき兄弟かな」
と感激し二人の嫁の心づかいに感涙にむせんだという。
それから600年余りの後、この地を訪れた松尾芭蕉がこの話を知り、楓、初音の母を思う心に涙したという。
芭蕉の友人天野桃隣は、
戦めくふたりの嫁や花あやめ
という句を残している。
甲冑堂は、白石市の田村神社の一角に現存し、六角形の堂の中には、楓と初音の甲冑武者姿の像が安置されている。この堂は、昭和14年に再建されたものであるが、古記録によれば、文亀年間(1501〜1504)に継信の末裔である佐藤左衛門亮信治により建てられたものと言われている。
 継信、忠信の墓は飯坂の佐藤基治の菩提寺瑠璃光山医王寺にあり、楓、初音と共に静かに座っている。


阿波祖谷山の平家の落人 (先人の記録による)
平清盛の弟、門脇中納言教経の子、従四位越後守国盛は寿永4年2月、讃岐国志度郷で源氏と合戦をして敗北し、この時、引き上げの船に乗り遅れ、やむなく白鳥郷の水主に隠れて約9ケ月滞在の後、32騎を率いて阿波に入り、平家の荘園がある山深い剣山をめざして吉野川を遡り、寿永4年(1185)12月下旬東祖谷村大枝にある岩屋にたどりついた。時あたかも元旦であったが松がなかったので檜を門松にしたという。大枝の名主を従わせその家に数年住みついた。
その後、阿波・土佐国境の11の集落を、阿佐ノ庄と名付けて支配した。
国盛は承久2年(1220)阿佐で病死したという。
これが、阿波祖谷山における平家の落人伝説である。
国盛の家系は今に続き、田舎には珍しい器物が多くあったが、今は天皇の錦の御旗が残されているということである。


義経生存説
義経ほどの知恵者で豪勇の大将が、むざむざ衣川で戦死した筈がないと言うのが義経生存説である。
第1説 衣川で死んだのは影武者であって、本物の義経は、ひそかに東稲山を越えて、陸中海岸へ向かったという。
その証拠となるものは無いが、陸中に都言葉が残っていることと、宮古に「判官稲荷」という神社があることからであるという。
第2説 陸中海岸沿いに津軽半島にたどりつき、船を手に入れ北海道に渡り、平取でアイヌ娘と結婚した。
北海道へ渡る時の出発地点である、青森県の三厩には、航海の安全を祈るために置いたという、観音様を祀る「義経寺(ギケイジ)」がある。また、北海道の平取には「義経神社(ギケイジンジャ)」がある。その後、アイヌの手助けで、サハリンに渡る。
第3説 サハリンに渡った義経は、モンゴル平原にたどりついて、モンゴル族の皇帝ジンギス・ハンになる。


弁慶の出自
関白藤原道隆の子孫の、熊野別当弁証を父とし、母は二位大納言の姫君であるという。
また一説には。義経の従兄にあたる熊野別当湛増の第二子であるという説がある。


静 御前 (讃岐の記録・伝説より)
静御前は磯野禅尼の娘で、母と同じ白拍子として世に出た。静は源義経の寵愛を受けていたが、義経は源平合戦に勝利したものの、兄頼朝の家来梶原景時の讒言により勘気を被り、静は義経と共に奈良の吉野山へ隠遁したが、義経の逃避行には足手まといとなり、そのうえ静は身重であったので吉野山の山中で義経と別れることになった
その後、頼朝の軍勢に捕われて都へ送られ、再び母と共に鎌倉に呼び出され、文治2年(1186)3月1日より同年9月16日まで幽閉された。その間夏7月には義経の子を生んだが、男子であったため無惨にも由比ケ浜に捨て殺された。
後、許されて洛西の嵯峨野に移り、文治3年8月ここより淡路を経て、母の生れ故郷の丹生小磯に移り住んだ。
衣川で頼朝の軍勢のため戦死した義経と、我が子の供養のために文治4年3月母と共に霊場巡りに旅立ったが、旅の途中で長尾寺に立ちより母と共に出家した。その後翻意して井戸村の中代にあった無住庵に住みついた。
建久2年(1191)12月20日母が転落して68才で死亡し、静は翌3年3月14日下女琴柱に見取られて24才で生涯を閉じた。母の墓は井戸川橋の東側にあり、静の墓は三木町下高岡の願勝寺と、三木町井戸鍛冶池西堤防の側にあり、琴柱もこの横に眠っている。


静御前伝説の地 (インターネット ホームページを参照)

名  称 所 在 地 由      緒
静 塚 香川県香南町

源義経の愛人静御前という女の人が休んだ所と言われている。
香南町に静集落があることから、この名がつ
 けられたと言う。
塚の中には、お地蔵さんが祀られていて、その周囲に
は、大きい石や積まれた石がある。

静御前剃髪塚 香川県長尾町

この塚は、長尾町の長尾寺にある。
母磯野禅尼と共に
得度したとき、髪を埋めた塚と言われている。近くの井戸中代に庵をむすび、義経の形見の薬師如来を安置したという。

静御前の墓 埼玉県
北葛飾郡栗橋町

この墓の場所は、以前光了寺という所であったようである。
中央に静女(しずじょ)の墓があり、その左に
義経招魂碑があり、そばに鎌倉の海に流された義経の子供と静の慰霊塔がある。またその右には「静桜」が植えられている。
この墓は、亨和三年(1805)五月に関東郡代中川飛騨守忠秀が建立したものらしい。墓があったとされる光了寺の過去帳には、静の戒名として「巌松院殿義静妙源大姉」が残されている。静が光了寺を訪ねたのは、義経の叔父に当たる人物がこの寺の住職をしていたかららしい。
現在、光了寺は、茨城県古河市中田にあるが、昔は伊坂(現栗橋町)にあったようである。この寺には静の遺品の舞衣(まいぎぬ)の一部や、鏡、守本尊などが残されている。
静は文治五年(1189)奥州の義経を追って、下総の下辺見という所で義経の最後を知らされ、すぐ髪を切って仏門に入ろうと都へ行こうとしたが、伊坂の里で病気になり同年九月十五日亡くなったという。

[インタ−ネット・歴史の町栗橋町よれば]
 一旦京都に帰った静は、侍女と共に奥州平泉に向かったが、文治五年五月太田荘須賀(宮代町)を経て、下河辺荘高野(杉戸町)に到着。
古河の関所元栗橋を目
指したが、関所での取り調べが厳重であったので八甫(鷲宮町)を経て、高柳(栗橋町)に出て高柳寺に一泊した。
翌日、奥州路を下逸見(茨城県総和町)ま
でやってきた静は、旅人から義経が先月平泉で討ち死にしたことを聞き、生きる望みを失い伊坂で剃髪して尼となったが、その三カ月後の八月義経の名を呼びながらこの世を去った。
栗橋町にある「静御前遺跡保存会」では、毎年九月十
五日に命日にちなみ墓前祭を行なっているようである。

姫待ち峠 北海道

北海道へ渡った義経を追って乙部まで来た静は、既に義経が一足違いで乙部岳を越えていたので、絶望のあ まり乙部川に身を投げて亡くなった。
いつからか義経に会えず待ちわびた峠を「姫待ち峠」その山、乙部岳を「九郎岳」、さらにそこを水源とする川を「姫川」と呼んで、里人は二人の悲話を偲んでいる。

静の里公園 兵庫県淡路島

舞の名手として有名な静御前は、志筑の地で47才の生涯を終えたと伝えられる。この公園の一画に静御前 と義経を祀る霊廟がある

神 社 京都府
丹後半島

静御前が生んだ義経の男の子が、由比ケ浜に捨て殺されされたのを悲しみ、生れ故郷の磯に帰り、二十余才の若さで世を去ったと言われている。
 網野町の磯集落のはずれには、静御前のはかない人生を哀れむように、小さい神社がひっそりと建っている。

静御前の墓 京都府
淡路島津名町

静御前が没後、一条中納言の荘園であったここに墓を建てた。 
この墓に詣でれば、縁の遠い人・佳い良縁を得て懐妊した人・美貌玉のような児を安産する。その上技芸に熟達する。
その効き目不思議であると言う

義経堂 岩手県

平泉の高館と言う小山にある義経堂で、静御前もここで自害したそうである。

静の桜 長野県
北安曇郡美麻町

兄源頼朝に追われ、奥州に逃れた義経を追い旅にでたが、最愛の義経と再会することなく、この地で生涯をとじた。
この時突いていた杖が根付き、桜の大木にな
ったそうである。
この桜を中心とした小さな公園を、
静の桜公園といい、八つの章からなる八画絵巻堂は、静御前の生涯を幻想的に描いたレリ−フを納めてある。

鼓ケ渕 香川県三木町

静御前が愛用の鼓を投じた所といわれている。
現在は
池は無く道路側に石碑がある。

供養塔 徳島県
徳島市八万町

義経が勝浦の港に上陸した後を追って、小松島の中海 に上陸し、しばらく赤石ノ浦に近い八幡島で休んだ後八万村中津浦竹林院に来たが、病気になり不帰の客となった。これを里人が哀れんで供養塔を建てたという伝説がある。
この話には異説が多いが、八幡神社には
「静衣掛け松」の古株が残っている。

静の椿 茨城県総和町

源義経を慕って奥州平泉に向かった静は、途中、下辺見(総和町)で義経の死を知り、道端で見つけた椿の枝を箸にして食事をした静は、義経のかわりに大きく育ってほしいと、その枝を地面にさした。
この時の椿
の枝が根付いて大きく育ったものが「静の椿」といい伝えられ、今も毎年美しい花を咲かせている。

花籠神社 奈良県

義経が「必ず迎えにくるから」と言って、菜摘の大庄屋大谷家に静を預けて行った。これから大谷家では小屋を作って住まわせた。
何もすることのない静は、大
谷翁から教わった花籠を作って遊んでいた。大谷翁はその花籠を持って吉野山の登山客に売ったところ客は大変よろこんで買ったという。
この屋敷跡に祠が祀ら
れ花籠神社と名付けられたという。

静御前様 岩手県

金売り吉次が静をひそかに連れてきて、宮古からきた義経と逢引させた所だという。閉伊川の断崖の上の森の中の判官大権現から、「鈴ケ御前」という棟札が出たという。
地元では「すずかごぜんさま」と呼んでい
るが、岩手の方言で呼んだので、このような発音になったのであろう。


静御前は、源義経の寵愛をうけた悲劇の舞姫であったので、その伝説は香川県から北海道まで、太平洋岸に沿って多く残っており、その全部を記録することは至難に近いので、この辺りで割愛することにする。