合戦夜話 2 源義経伝説の地 (インターネット ホームページを参照) |
名 称 | 所 在 地 | 由 緒 |
左衛門四郎 稲荷大明神 |
宮城県 古川市荒谷 |
文治3年(1187)義経は兄頼朝の勘気を被り奥州へ下向の時、北陸路を通り鳴子を経て荒谷の斗瑩山に到着した。 |
白旗神社 | 神奈川県藤沢 |
平泉で亡くなった義経と弁慶の霊を祀り鎮守様としたのが、この白旗神社と伝えられている。 |
七つ石 | 奈良県 |
源頼朝に追われた義経は、舟で瀬戸の海から西国へ逃れようとしたが暴風雨のため果たせず、京都にもどって陸路をとり奈良へ、長谷街道を西に行き高田の里に到着した。 |
うたたね橋 | 奈良県 |
吉野山から落ち逃れてきた義経が、桜木神社の前の屋形橋で、疲れのため思わずうたた寝をしたと言う橋。 |
判官大権現 | 岩手県 川井村箱石 |
この神社は、鳥居がある小さな神社で、棟札によると、義経主従が滞在して鞍馬山から毘沙門天を移して、祀った所と言われている。 |
日向日月神社 |
岩手県
新里村茂市 |
土佐の豪族茂市家の氏神。 |
新里判官神社 | 岩手県 新里村茂市 日陰平 |
義経一行が参詣して写経した般若経を、奉納した神社といわれている。 |
長沢判官堂 | 岩手県 宮古市長沢 |
この神社は、宮古市の南の地区の竹下家の氏神で、同家の言い伝えでは、義経主従が山田町から十二神山を越え、川目を経て同家に来て宿泊し一行は「蝦夷に行く」というので、竹下家の先祖が「お供を」と頼むと、「世をしのぶ旅なので、多くの供は・・・」と断られた。 |
津軽石判官神社 | 岩手県津軽石 |
義経一行は、長沢から折壁・大谷池を通りこの渋溜の判官館山に来て、仮の家を建てて一時住んだ(下閉伊郡志)という。地元では館山と呼ぶ。 |
横山八幡宮 | 岩手県 宮古市宮町 |
この神社は、義経一行が参拝した神社である。 |
黒森神社 | 岩手県 宮古市黒森 |
義経一党が3年3ケ月滞在して、般若心経を写経し、奉納したという。 |
判官稲荷神社 | 岩手県 宮古市本町 |
義経の甲冑を埋めた所という。 |
三 廐 | 青森県三廐 |
青森県の竜飛岬まで来た義経は、三厩で3日3晩北海道への渡海を祈ると、白髪の老人が現れて3頭の白馬を与えられた。 |
馬 岩 | 北海道 江差町鴎島 |
江差に到着した義経は、愛馬を残してさらに北に向かって行った。義経の帰りを待ちわびた白馬は、白い岩となってここに残った。 |
六条の森 | 北海道乙部町 |
乙部町緑町交差点から山側に1キロメ−トルにある。 |
桂の木 | 北海道 乙部町・元和台 |
衣川の戦いに敗れた義経は、弁慶と共に乙部町の九郎岳の山麓にたどり着いた。 |
奇 岩 (白い横縞の ある奇岩) |
北海道 北桧山町 太櫓海岸 |
北海道に渡った義経は、アイヌの娘に見染められ、それを追って来たアイヌの船に捕えられそうになった時、弁慶が岩を投げつけて義経の危機を救ったという奇岩。 |
船魂神社 | 北海道 函館市日和坂上 |
義経一行が、津軽海峡を渡って北海道へ行く時、風波が強かったので、義経は一心に船魂明神に祈り無事渡海することができた。 |
義経の湧水 | 北海道 函館市日和坂上 |
船魂神社の境内に、義経が弓でつついて湧出させたという湧水があったが、今は枯れてない。 |
矢越岬 | 福島町と 知内町の町境 |
矢越岬の沖は、昔からカムイ魔神が住んでいるので、風が吹き荒れて、沖を通る漁民をなやませていた。 |
阿弥陀像 | 北海道 松前町 光善寺境内 |
矢越岬を越え津軽海峡を渡った義経は、神仏に深く感謝し、阿弥陀千体仏を刻み義経山欣求院に納めた。 |
シララ姫伝説 | 北海道積丹半島 |
積丹岬の東、入舸はアイヌの人達が住んでいた所である。 |
神威岩 | 北海道 積丹町余別 |
日高の平取から雷電岬を越えて、岬の沖にさしかかった義経一行は、荒波にもまれ難破しそうになったが、義経は神威岩と海の神、風の神に祈りを捧げると風もおさまり無事通過することができた。 |
らいねん | 北海道 岩内町雷電 |
義経一行は、雷電の険しい山でアイヌの首長チパの襲撃に遭遇し、囚われの身となってしまった。 |
刀掛岩 | 北海道 岩内町雷電 国道沿い海側雷 電岬 |
義経一行が雷電まで来た時ちょっと一休みした。 |
薪積岩 | 北海道 岩内町雷電 国道沿いの山側 |
義経一行は雷電まで落ち延びてきたが、岩内は海岸の町で、4月といっても追われる身には風は冷たい。一行の暖をとるため、弁慶は付近の木を切って薪を積み上げ寒さに備えた。 |
不落の洞窟 | 北海道 岩内町雷電 刀掛岩の横 |
内部の高さ約16メ−トル、幅4メ−トル、広い所で20メ−トル、奥行きは約80メ−トル位まで確認されている。 |
笹りんどうの 隠刻石 |
北海道 岩内町円山 ニセコ岩内スキ− 場レストハウス前 |
昭和63年5月、岩内町スキ−場ロッジ前斜面にある大きな石に、源氏の家紋といわれる「笹りんどう」が隠し彫りされているのが発見され、拓本にも成功した。 |
兜 岩 | 北海道 泊村・国道 兜トンネル上 |
積丹半島の西岸の景勝地はカブトラインと呼ばれる。 |
義経岩 | 北海道 和琴半島 |
義経が岩内で岩に刀を掛けて釣りを楽しんだといわれる岩。 |
弁慶土俵 | 北海道 寿都町糠森 |
その昔糠森そのものが弁慶の土俵であったらしい。 |
弁慶像 | 北海道 寿都町・弁慶岬 |
昭和63年4月、弁慶岬に高さ3.6メ−トルの大きな弁慶像が建てられた。台座にはこの地で援軍の到着を待つ弁慶の心情を表わす「想望」の文字が彫られている。 |
金の銚子と盃 | 北海道 寿都町 弁慶岬二つ森 |
長期滞在していた弁慶が旅立つことになり、地元の人たちと別れを惜しむ宴席で、秘蔵の金の銚子と盃を取り出して、弁慶岬の二つ森と糠森の間にある白桔梗の根元に埋めた。 |
義経の黄金伝説 ラルマナイ滝 |
北海道 恵庭市 恵庭岳麓 |
昭和14年頃、発見者が古文書を探索の結果、恵庭岳の付近を流れる、ラルマナイ川にある滝付近の3ケ所内の1ケ所で、大量の砂金が発見された。 |
ハマナスの花 | 北海道石狩浜 |
石狩にやってきた義経は、メノコと恋におちたが、大望成就のため別れに際して、メノコにハマナスの花を贈って別れたといわれている。 |
アマシュケの 岩燕伝説 |
北海道浜益町 |
浜益はアイヌ語でマシュケという。アマムは穀物、シュケはは炊くの意味だそうだが、この語源は義経一行がこの地で飯を炊いて食べたことからであると伝えられている。 |
義経公園 | 北海道 平取町本町 |
義経伝説にちなんだ弁慶池・弁慶橋・義経神社・義経資料館などがある。 |
義経神社 | 北海道 平取町 義経公園 |
寛政10年(1798)近藤重蔵が蝦夷地を探検した時、平取に住むアイヌの人達が、義経をハンガンカムイと尊敬をこめて呼んでいたことを知ったという。 |
狼伝説 | 北海道 本別町・義経山 |
本別町市街地から約1.5キロメ−トルにある義経山は、昔サマイクルと呼ばれていた。 |
弁慶洞 | 北海道本別町 |
本別公園羽衣橋から本別川に沿って行くと、「君待岩」そこから急勾配を登ると弁慶洞がある。近くに義経が躓いたといわれる岩がある。 |
尻餅沢 | 北海道羅臼町 |
義経一行は流れ着いた鯨の肉を焼いていたところ、串が折れて火の中に飛び込んだので、びっくりした義経が尻餅をついた所という。 |
知床岳 | 北海道羅臼町 |
知床は別名オフイといい、焼くと意味だそうである。この岳の頂上付近には義経が残したといわれる、焼魚の串が石になった物などがあるという。 |
雄冬岳 | 北海道増毛町 |
この岳に棲む魔力があるメノコと、日高のアイヌが争いをした時、弁慶が投げ飛ばしたので、メノコは義経を養子にした。これによって義経はメノコの大切な巻物を取り上げしまったという。 |
義経試し切り の岩 |
北海道 稚内市・宗谷岬 寄りの海岸 |
宗谷岬についた義経が、岬の近くのオンコロマナイでのこと、流石の豪傑の義経も疲れていたので、みすぼらしく見えたのだろうか、樺太に渡る船を出してくれるよう頼んでもまともに聞く者がいなかった。 |
那須与一の横顔 誕 生 日 不明 死 亡 日 1 扇の的を射落としたとき、これを讃えて船で踊りだした平家の武将伊賀十郎衛家員の菩提寺、京都伏見の即成院に埋葬された。死亡の日は特定できない。 2 文治5年8月8日(1189) 那須隆氏蔵那須系図 3 建久元年10 (1190) 続群書類従・那須系図 4 文治5年8月8日(1189) 那須拾遺記 兄 弟 父は那須資隆で与一は11番目の子 太郎光隆(てるたか) 森田(現・南那須町森田)に分地 次郎泰隆(やすたか) 佐久山に分地 三郎幹隆(もとたか) 芋渕(現・那須町梁瀬芋渕)に分地 四郎久隆(ひさたか) 片府田(現・湯津上村片府田)に分地 五郎之隆(ゆきたか) 福原に分地 六郎実隆(さねたか) 滝田(現・烏山町滝田)に分地 七郎満隆(みつたか) 沢村(現・矢板市沢)に分地 八郎義隆(よしたか) 堅田(現・黒羽町片田)に分地 九郎朝隆(ともたか) 稗田(現・矢板市豊田)に分地 十郎為隆(ためたか) 千本(現・茂木町千本)に分地 与一宗隆(むねたか) 扇の的を射た褒美として、源頼朝より惣の地位と、五つの荘園を拝領した。 拝 領 地 丹波国五賀庄(京都府船井郡日吉町) 信濃国角豆庄(長野県松本市、塩尻市) 若狭国東宮河原庄(福井県小浜市) 武蔵国太田庄(埼玉県行田市、羽生市) 備中国絵原庄(岡山県井原市) これが縁となって「岡山県井原市」と「栃木県大田原市」は友好親善都市の盟約を交わしている。 タイ醤油 (庵治町史より) 屋島の内裏から肉醤(ニクショウ)を送ってきたと、その頃の歌人藤原定家が書いた日記がある。 ここの場合は、魚肉を使った醤油で、昔は鯛の肉で造ったものだという。 屋島に滞在した平家の高官から、藤原定家に庵治の海で獲れた鯛醤油が、どのようなル−トで届けられたか不明であるが、平家の公達や将兵たちや、都の高官も賞味したことは確かなことであるようである。 近年は、イカナゴ醤油、エビ醤油といって、これら魚肉を塩漬にして布でこして滓をとったものである。 |