合戦夜話 2

源義経伝説の地 (インターネット ホームページを参照)
名  称 所 在 地 由       緒
左衛門四郎
稲荷大明神
宮城県
古川市荒谷

文治3年(1187)義経は兄頼朝の勘気を被り奥州へ下向の時、北陸路を通り鳴子を経て荒谷の斗瑩山に到着した。
吉野山に似た斗瑩山で静御前の遺愛の鼓の
音に聞きいっていたとき、どこからともなく白狐が現
「その鼓は亡き母の皮で作ったものぜひ返して戴き
たい。そうしてくだされば、義経公の守護にあたり、災難を救ってあげましょう」と涙ながらに申し出た。
そうしているうちに、白狐は斗瑩山の岩穴に入り込んだ。早速、義経は弁慶に命じ祭壇を築かせ鼓を岩穴に投入れ、一行の武運を祈願した。
この白狐こそ左衛門尉四郎忠信が姿を変じた狐忠信で
あったという。
応永5年(1398)大崎左京太夫持栓が社殿を造営し、小野城の守護とした。
永正13年(1516)野
火により焼失したが、永禄5年(1562)光明寺開基の異庵全秀大和尚が伏見の稲荷山から勧請し再建した。
この物語は、歌舞伎で上演される「義経千本桜」の
元の話である。

白旗神社 神奈川県藤沢

平泉で亡くなった義経と弁慶の霊を祀り鎮守様としたのが、この白旗神社と伝えられている。
悲運の最後をとげた義経の首が、この神社の境内の塚に葬られたと言われる。
また、白旗神社の近くの小さい公園の中にある井戸で、義経の首を洗いその首がこの神社に祀られているともいう。

七つ石 奈良県

源頼朝に追われた義経は、舟で瀬戸の海から西国へ逃れようとしたが暴風雨のため果たせず、京都にもどって陸路をとり奈良へ、長谷街道を西に行き高田の里に到着した。
高田は静御前の里が高田の磯野にあり、静の母磯野禅
尼が住んでいたからである。
大中の春日神社の境内に入り一休みし、鎌倉の追手が
いないか確かめた。この時、義経に付き随う者は、静御前・武蔵坊弁慶・常陸坊海尊・駿河次郎・伊勢三郎 ・亀井六郎・片岡経春・佐藤忠信・喜三太の十名であった。
まず、伊勢三郎が物見に立ち、片岡経春が静に
付き添って禅尼の元まで送り届ける。残る七人が、境内にある七つの石に、それぞれ腰を下ろし一息ついた。
この時の石が今も春日神社の境内に
残っていて「七つ石」と言われている。

うたたね橋 奈良県

吉野山から落ち逃れてきた義経が、桜木神社の前の屋形橋で、疲れのため思わずうたた寝をしたと言う橋。

判官大権現 岩手県
川井村箱石

この神社は、鳥居がある小さな神社で、棟札によると、義経主従が滞在して鞍馬山から毘沙門天を移して、祀った所と言われている。
祭神は義経で義経が逗留した
ことを示す各種の棟札があり最も詳しいという。
「観音経、般若経読誦、クロウハングワンヨシツネ大権ゲン之所」(明暦4年3月の棟札)
「源九郎判官義経・・・御武運長久祈所」「・・・判官之御本地毘沙門天影向之御堂・・・」(以上元禄12年3月の棟札)
これらは、初めて義経蝦夷地渡海
を解いた幕府御抱儒者林春斉著「本朝通鑑」(寛文11年)より古く、江戸の学者が義経の蝦夷渡海を解く前から、岩手の山奥にこのような棟札があるのは、注目に値すると佐々木氏は言うとある。
この神社がある所は、箱石地区の判在家にあり、同家は山伏の出で、神社の別当の山名家は、義経の家臣山名義信一族の子孫と言われている。

日向日月神社
岩手県
新里村茂市

土佐の豪族茂市家の氏神。
御神体は「鏡」で、日月山
神鏡宮ともいう、保元2年(1157)3月15日と記された棟札には、「奉鎮座日月山鏡宮、諸願天下泰平、武運長久」とある。
茂市家の先祖は佐々木四郎太
郎義高で、義経の子にあたるという。

新里判官神社 岩手県
新里村茂市
日陰平

義経一行が参詣して写経した般若経を、奉納した神社といわれている。
この神社は、新里村茂市の刈屋川と
閉伊川の合流点のそばで、刈屋川の西側の林の中にある。
治承・養和(1840年前後)の頃、行脚の老僧
が観音堂を建立、ここを義経が参拝後判官神社になったという元文5年の棟札がある。
同村町場の腹帯八幡の別当家は、義経の子を先祖とする佐々木吉高氏で、同村下野には亀井六郎と弁慶が連名で、湯田村の家平あてに書いた借用証文(一杯盛古文書)がある。また、蟇目二又御堂ケ鼻には、義経一行の道案内したという出雲氏の分家亀井氏があるという。

長沢判官堂 岩手県
宮古市長沢

この神社は、宮古市の南の地区の竹下家の氏神で、同家の言い伝えでは、義経主従が山田町から十二神山を越え、川目を経て同家に来て宿泊し一行は「蝦夷に行く」というので、竹下家の先祖が「お供を」と頼むと、「世をしのぶ旅なので、多くの供は・・・」と断られた。
そこで山の裏に神社を建て義経の石像を安置し、
一行の無事を祈願したという。
佐々木氏によれば、一行はここに来る前に山田町大沢の浜川女にきて、坂ノ下の箱石家に宿泊したので、これ以来竹下家は判官家と名のっていたが、家は明治29年の大津波で流失した。近くの江岸山南陽寺には、判官と彫った同家の代々の墓があるという。

津軽石判官神社 岩手県津軽石

義経一行は、長沢から折壁・大谷池を通りこの渋溜の判官館山に来て、仮の家を建てて一時住んだ(下閉伊郡志)という。地元では館山と呼ぶ。
この山の中腹の林の中に判官神社があり、衣冠束帯で有髪で白斑の馬に乗った義経像がある。この神社は焼失したが、明治以後の棟札には判官神社となっている。
同社登り口に「嘉永四年辛亥天君館大明神館下長助建立」の石碑があり、佐々木氏は館下家の先祖は義経と主従関係にあったのではないかと言う。
一行は、八木沢の判官洞(竹下源八宅)、小山の判官松を経て閉伊川を渡り、宮古市に入ったらしい。

横山八幡宮 岩手県
宮古市宮町

この神社は、義経一行が参拝した神社である。
義経は
神主宅に、他の一行は長床に泊まり北帰行の成功を祈願した(宮古市小山田君沢鶴蔵氏蔵書「横山八幡宮記」「宮古判官稲荷縁起」)ようだ。家臣の鈴木三郎重家は、熊野権現の宮家の出身であり、老齢であったので重三郎と変名しここに残り、同社の神主になったという。
その子重染は、江刺市に重染寺
を建立したという。
「重三郎、鈴木重家ノ隠名ニシテ
実ハ縁ヲ求メテ判官ノ冤ヲ訴フルノ意素ヨリ有所ナリ」(横山八幡宮取調書)農民は重家を農神として祀り、法霊権現と号した。

黒森神社 岩手県
宮古市黒森

義経一党が3年3ケ月滞在して、般若心経を写経し、奉納したという。
黒森山の中腹にあり九郎森を隠した
地名だという。
「(義経)遠ク宮古県ニ来リ深ク黒森山中に匿ルルコト顕然タリ」(奥州南部封城志)「大般若経壱部 右ハ義経・弁慶蝦夷地下向ノ際当所ニテ書写ス・・・」(黒森神社寄付名鑑)

判官稲荷神社 岩手県
宮古市本町

義経の甲冑を埋めた所という。
「そして黒森山中に館
し、各姓改む。三年三月の行場という所あり。そして絶海に走るか蝦夷人、その後を知る人なく。宮古の民、深く廷尉の徳に服し、遂にその甲冑を埋めて、ここに祠を立てて祭る」(慶長十年の源義時著「宮古判官稲荷縁起)

三 廐 青森県三廐

青森県の竜飛岬まで来た義経は、三厩で3日3晩北海道への渡海を祈ると、白髪の老人が現れて3頭の白馬を与えられた。
これが、三馬屋(三厩)の地名の起こ
りとなったという。

馬 岩 北海道
江差町鴎島

江差に到着した義経は、愛馬を残してさらに北に向かって行った。義経の帰りを待ちわびた白馬は、白い岩となってここに残った。
この岩を、江差町鴎島の馬岩
という。

六条の森 北海道乙部町

乙部町緑町交差点から山側に1キロメ−トルにある。
源義経が、源頼朝に捕えられ首を打たれた祖父六条判
官為義の霊を慰めるために、祖父の名にちなんで「六条の森」と名付けて碑を建てた。

桂の木 北海道
乙部町・元和台

衣川の戦いに敗れた義経は、弁慶と共に乙部町の九郎岳の山麓にたどり着いた。
里人は義経の悲運を思いや
り、桂の大木を奥州の地が望めるように、見晴らしのよいこの地に移したという。

奇 岩
(白い横縞の
ある奇岩)
北海道
北桧山町
太櫓海岸

北海道に渡った義経は、アイヌの娘に見染められ、それを追って来たアイヌの船に捕えられそうになった時、弁慶が岩を投げつけて義経の危機を救ったという奇岩。

船魂神社 北海道
函館市日和坂上

義経一行が、津軽海峡を渡って北海道へ行く時、風波が強かったので、義経は一心に船魂明神に祈り無事渡海することができた。
この船魂神社は、初め観音堂といわれておった。鰐口の製作年は、義経が北海道へ渡る200年程後の、応永5年(1394)となっている。
神社の横には穴があり、その主は、大蛸・鰐鮫・白蛇などといわれ、それを祀った龍神がおられるとの言い伝えがある。

義経の湧水 北海道
函館市日和坂上

船魂神社の境内に、義経が弓でつついて湧出させたという湧水があったが、今は枯れてない。

矢越岬 福島町と
知内町の町境

矢越岬の沖は、昔からカムイ魔神が住んでいるので、風が吹き荒れて、沖を通る漁民をなやませていた。
義経一行がこの岬を通る時も風になやまされたという。義経は船が木の葉のように揺れながら、一心に「南無八幡大菩薩」と祈り、弓に矢をつがえて岬に向かって矢を射ると、風波はおさまり無事通りすぎることができたという。

阿弥陀像 北海道
松前町
光善寺境内

矢越岬を越え津軽海峡を渡った義経は、神仏に深く感謝し、阿弥陀千体仏を刻み義経山欣求院に納めた。
その後、この寺は戊辰の戦いで火災により焼失したが、不思議にも阿弥陀像だけは焼け残り、光善寺にあらためて祀られたということである。
境内には、義経が矢
尻で彫ったという「義経山」と刻まれた碑が残っている。

シララ姫伝説 北海道積丹半島

積丹岬の東、入舸はアイヌの人達が住んでいた所である。
義経一行は、日本海を北上し神威岬の沖を通過しようとしたが、この辺りは風が強く潮の流れの早い難所で、船は荒海にもまれ櫂を流されたが、かろうじて入舸に着いた。
土地の首長は、娘のシララに義経を介抱させ
たが、義経にとってはここも安住の地でないので、源家再興を目指して船出をした。
シララは岩伝いに船を
追いかけたが、折りからの満潮に呑み込まれてしまった。シララは浮かび上がり、沈んだかと思うとそのまま岩になったということである。
現在はこの辺りを、
「シララの小道」と呼んでいる。

神威岩 北海道
積丹町余別

日高の平取から雷電岬を越えて、岬の沖にさしかかった義経一行は、荒波にもまれ難破しそうになったが、義経は神威岩と海の神、風の神に祈りを捧げると風もおさまり無事通過することができた。
一説には、平取のアイヌの娘チャレンカも、また義経を慕って後を追い、船の行く手を阻むために身投げしたのが、立岩として残っているという。
神威岩はその
昔女人禁制の地といわれ、女性が乗った船がこの辺りを通ればチャレンカの恨みによって必ず船は転覆したという。

らいねん 北海道
岩内町雷電

義経一行は、雷電の険しい山でアイヌの首長チパの襲撃に遭遇し、囚われの身となってしまった。
アイヌの
人達が祝いの席に着こうとした時、突然祭壇のイナウが倒れた。義経を捕らえた罰と悟ったアイヌの人達は、一行を手厚く介抱した。
出発の時がきたので準備をし
ていると、いつしか恋が芽生えていたチパの娘メヌカが別れを惜しむので、「らいねんはきっと帰ってくる、それまでの別れだ」と告げると、「らいねんまで待っているわ」二人の交わした最後の言葉「らいねん」がいつからか、雷電の地名になったという。

刀掛岩 北海道
岩内町雷電
国道沿い海側雷
電岬

義経一行が雷電まで来た時ちょっと一休みした。
弁慶
はいつも片時も離さない刀を、近くの岩に刀を架けた。このことからいつしかこの岩を「刀掛岩」、この岬を「刀掛岬」と呼ぶようになった。
また、弁慶は雷電に
暫く滞在している時に、よくこの辺りで磯釣りをしたが、この時もこの岩に刀を架けていたという。

薪積岩 北海道
岩内町雷電
国道沿いの山側

義経一行は雷電まで落ち延びてきたが、岩内は海岸の町で、4月といっても追われる身には風は冷たい。一行の暖をとるため、弁慶は付近の木を切って薪を積み上げ寒さに備えた。
その時薪を積み上げた場所が化石
になったと伝えられている。

不落の洞窟 北海道
岩内町雷電
刀掛岩の横

内部の高さ約16メ−トル、幅4メ−トル、広い所で20メ−トル、奥行きは約80メ−トル位まで確認されている。
洞窟は寿都までつながっていると言われて
いる。洞窟への交通は船のみであるから、義経に関係のあったアイヌの首長チパが、武器や財宝を隠したとの伝説が残っている。
また、アイヌの娘メヌカが戻らぬ義経
に思い焦がれて身投自殺した「悲恋の穴」と呼ばれている。

笹りんどうの
隠刻石
北海道
岩内町円山
ニセコ岩内スキ−
場レストハウス前

昭和63年5月、岩内町スキ−場ロッジ前斜面にある大きな石に、源氏の家紋といわれる「笹りんどう」が隠し彫りされているのが発見され、拓本にも成功した。
これを発見したのは、「義経・弁慶ロマンの会北海道」副会長金沢一哉さん(札幌在住)で、かねてから伝説の地に義経の隠刻の調査をしておった時、たまたま、石を撮影していたことが発見につながったそうです。
その後、一目でわかるように、薄い青色で着色しているそうです。

兜 岩 北海道
泊村・国道
兜トンネル上

積丹半島の西岸の景勝地はカブトラインと呼ばれる。
そのほぼ中央に泊村カブト岬があり、突端にカブト岩がある。
この地に立ち寄った義経が、世話になったお礼に首長に金の兜を贈って去ったといわれている。首長はそれを岬の洞窟に大切に保管しておったが、その場所を誰にも教えず亡くなってしまった。
忘れないでほしいと
の気持ちからか、岬に兜の岩を残したといわれている。

義経岩 北海道
和琴半島

義経が岩内で岩に刀を掛けて釣りを楽しんだといわれる岩。

弁慶土俵 北海道
寿都町糠森

その昔糠森そのものが弁慶の土俵であったらしい。
俵作りに使った残りの糠が、岩となったという。
土俵の大きさは、幅20メ−トル周囲30メ−トルの
土盛りがされており、土俵の外には四本柱の跡、弁慶 が履いた大きな下駄の跡、上方には義経が座った物見台があったそうである。
相撲をとる時弁慶は手加減しなかったので、投げ飛ばされた者は勢いあまって崖下まで転落し鼻血で岩を赤 く染めたという。赤く染まった岩は「赤岩」といわれている。
いくら力自慢の弁慶でも、義経にはかなわな
かったそうである。

弁慶像 北海道
寿都町・弁慶岬

昭和63年4月、弁慶岬に高さ3.6メ−トルの大きな弁慶像が建てられた。台座にはこの地で援軍の到着を待つ弁慶の心情を表わす「想望」の文字が彫られている。
毎年8月の第2土・日曜日に「寿都湾弁慶まつ
り」が賑やかに開催されている。

金の銚子と盃 北海道
寿都町
弁慶岬二つ森

長期滞在していた弁慶が旅立つことになり、地元の人たちと別れを惜しむ宴席で、秘蔵の金の銚子と盃を取り出して、弁慶岬の二つ森と糠森の間にある白桔梗の根元に埋めた。
必ず生まれ変わって二つ森に帰ること
を約束し「これを掘り出す者は天罰が下るであろう」と言い残してと雷電岬の方へ静かに立ち去って行ったという。

義経の黄金伝説
ラルマナイ滝
北海道
恵庭市
恵庭岳麓

昭和14年頃、発見者が古文書を探索の結果、恵庭岳の付近を流れる、ラルマナイ川にある滝付近の3ケ所内の1ケ所で、大量の砂金が発見された。
義経が牛若丸といわれていた頃、金売吉次に伴われて
奥州に下った。
吉次が発見した鉱山の一つが、山形県
最上郡金山町にあり、これは通称吉次山といわれていた。戦には軍資金が必要なので案外吉次の金が、義経 の軍資金として密かに運ばれ、熊に守られて隠されていたのかもしれない。

ハマナスの花 北海道石狩浜

石狩にやってきた義経は、メノコと恋におちたが、大望成就のため別れに際して、メノコにハマナスの花を贈って別れたといわれている。

アマシュケの
岩燕伝説
北海道浜益町

浜益はアイヌ語でマシュケという。アマムは穀物、シュケはは炊くの意味だそうだが、この語源は義経一行がこの地で飯を炊いて食べたことからであると伝えられている。
義経一行がこの地を去る時、「娘の身代わりに」と老婆が2羽の岩燕を贈ったが、すぐに舞い戻ってきた。なぜなら娘は失恋して悲しみが深いあまり、毒を飲んで自害してしまったそうだ。
岩燕は今も洞窟に棲みついているそうである。

義経公園 北海道
平取町本町

義経伝説にちなんだ弁慶池・弁慶橋・義経神社・義経資料館などがある。

義経神社 北海道
平取町
義経公園

寛政10年(1798)近藤重蔵が蝦夷地を探検した時、平取に住むアイヌの人達が、義経をハンガンカムイと尊敬をこめて呼んでいたことを知ったという。
そこで、当時江戸神田で大仏などを作っていた橋善啓
に義経公の像を作らせ平取に寄進安置したと記録が残 っている。高さ1尺ほどで、ご神体とご神台の裏面にそれぞれの名前が刻されている。
義経神社の紋は笹り
んどうであるが、これにちなんで平取町の町章も笹りんどうがデザイン化されている。

狼伝説 北海道
本別町・義経山

本別町市街地から約1.5キロメ−トルにある義経山は、昔サマイクルと呼ばれていた。
サマイクルは人間
の生活に必要な知恵を教える文化の神のことである。ある年サマイクルは12匹の狼を引き連れてこの山に住みついた。狩りの時はかわるがわる狼がお供をした。
サマイクルは「チョ−チョ−」と狼を呼び集めたが、後になってアイヌの人が犬を呼ぶ時同じ掛け声で呼ぶようになったという。
義経が家の建築、農耕・狩猟・道具の造り方などを教
えたため、このように伝えられているのだろうか。

弁慶洞 北海道本別町

本別公園羽衣橋から本別川に沿って行くと、「君待岩」そこから急勾配を登ると弁慶洞がある。近くに義経が躓いたといわれる岩がある。

尻餅沢 北海道羅臼町

義経一行は流れ着いた鯨の肉を焼いていたところ、串が折れて火の中に飛び込んだので、びっくりした義経が尻餅をついた所という。

知床岳 北海道羅臼町

知床は別名オフイといい、焼くと意味だそうである。この岳の頂上付近には義経が残したといわれる、焼魚の串が石になった物などがあるという。

雄冬岳 北海道増毛町

この岳に棲む魔力があるメノコと、日高のアイヌが争いをした時、弁慶が投げ飛ばしたので、メノコは義経を養子にした。これによって義経はメノコの大切な巻物を取り上げしまったという。
今でもこ辺りはマムシが多いのだが、それは義経が置いた甲冑がマムシに変身したからだという。

義経試し切り
の岩
北海道
稚内市・宗谷岬
寄りの海岸

宗谷岬についた義経が、岬の近くのオンコロマナイでのこと、流石の豪傑の義経も疲れていたので、みすぼらしく見えたのだろうか、樺太に渡る船を出してくれるよう頼んでもまともに聞く者がいなかった。
それど
ころか嘲笑する者がいたので、怒った義経は、近くにあった岩を一刀のもとに切ったという。


那須与一の横顔
誕 生 日 不明
死 亡 日
 扇の的を射落としたとき、これを讃えて船で踊りだした平家の武将伊賀十郎衛家員の菩提寺、京都伏見の即成院に埋葬された。死亡の日は特定できない。
 文治5年8月8日(1189)   那須隆氏蔵那須系図
 建久元年10   (1190)   続群書類従・那須系図
 文治5年8月8日(1189)   那須拾遺記
兄 弟
父は那須資隆で与一は11番目の子
太郎光隆(てるたか)  森田(現・南那須町森田)に分地
次郎泰隆(やすたか)  佐久山に分地
三郎幹隆(もとたか)  芋渕(現・那須町梁瀬芋渕)に分地
四郎久隆(ひさたか)  片府田(現・湯津上村片府田)に分地
五郎之隆(ゆきたか)  福原に分地
六郎実隆(さねたか)  滝田(現・烏山町滝田)に分地
七郎満隆(みつたか)  沢村(現・矢板市沢)に分地
八郎義隆(よしたか)  堅田(現・黒羽町片田)に分地
九郎朝隆(ともたか)  稗田(現・矢板市豊田)に分地
十郎為隆(ためたか)  千本(現・茂木町千本)に分地
与一宗隆(むねたか)  扇の的を射た褒美として、源頼朝より惣の地位と、五つの荘園を拝領した。
拝 領 地
丹波国五賀庄(京都府船井郡日吉町)
信濃国角豆庄(長野県松本市、塩尻市)
若狭国東宮河原庄(福井県小浜市)
武蔵国太田庄(埼玉県行田市、羽生市)
備中国絵原庄(岡山県井原市)
これが縁となって「岡山県井原市」と「栃木県大田原市」は友好親善都市の盟約を交わしている。


タイ醤油 (庵治町史より)
屋島の内裏から肉醤(ニクショウ)を送ってきたと、その頃の歌人藤原定家が書いた日記がある。
ここの場合は、魚肉を使った醤油で、昔は鯛の肉で造ったものだという。
屋島に滞在した平家の高官から、藤原定家に庵治の海で獲れた鯛醤油が、どのようなル−トで届けられたか不明であるが、平家の公達や将兵たちや、都の高官も賞味したことは確かなことであるようである。
近年は、イカナゴ醤油、エビ醤油といって、これら魚肉を塩漬にして布でこして滓をとったものである。