狸 伝 説(1)


屋島多三郎狸                   

1.屋島狸の命名            新田庄市氏より聞書  

屋島の狸が、香川県や四国内は勿論日本中で有名になったので、名無しではどうも格好がつかないから、名前をつけようということになったので、尾原清行(之)氏が『多(太)三郎』と命名したと言う。

 

2.多三郎狸   屋島寺境内蓑山大明神案内板及び森清氏所有のパンフレットより抜粋

屋島に生まれ屋島で大きくなった多三郎狸は、お父さん狸やお母さん狸に可愛がられて育てられ、毎日山の中を駆け回って遊ぶ元気な子狸であった。  

昔々、嵯峨天皇弘仁元年(810)に弘法大師が、勅命で屋島山の北嶺にある寺を南嶺に移す為に屋島山へ登山の途中、突然の強い雨風の為に困っている様子を、この多三郎子狸が見て、

「さぞ、お困りであろう」と、蓑を差し出して、道の無い山をかき分けて山上へ案内した。

このように多三郎狸は親切で、大変評判の良い可愛い狸であった。大人になってからは、阿波の金長狸の兄貴分となり仲良くしていたが、ある時、かの有名な阿波の狸合戦が始まり、なかなか結末がつかないので、その仲介をかって出て見事喧嘩を止めさせることができた。  

こんなことがあってから後は、だんだんと人気が上がり、四国狸の総大将におさまり、淡路の団三郎狸、佐渡の柴右衞門狸と共に日本三大狸と賞賛されるようになった。

又、この頃狸の教養を高める為に創設された、日本屋島狸大学の総長となり狸界に貢献すると共に、高松淨願寺の白禿狸と親交をもち、良き相談相手となったと言う。

この後年老いてからは、一番弟子八兵衞狸に面倒をみられて余生を送っていたが、屋島寺に異変ありと感じた時はいち早く住職に知らせ、又、住職が代替りした時は、屋島寺の『雪の庭』を戦場に見立てて、過ぎし寿永の昔の源平屋島檀の浦の合戦の様子を、住職達に鳴り物入りで再現して見せていたという。

昭和十三年頃時の安永住職は、『雪の庭』がにわかに滄海に変じて、鎧武者が現れ物凄い雄叫びと共に、勇ましい昔の合戦の夢を見たという。

今、多三郎狸は屋島寺の本堂と大師堂の中程に、約1・5メートル位の石碑に『蓑山大明神』と刻まれて祀られ、狸は生涯一夫一婦制を硬く守る為、和合神として、又良き縁談をもたらす福の神として、里人は勿論のこと、観光客の崇敬の的となって日夜訪れる人が絶えない。

(後記)

1)俗に言われている阿波の狸合戦は、讃岐の多三郎狸と阿波の金長狸との縄張り争いが原因の合戦であると言われているが、本当は阿波の狸族の間で起った争いを、話を面白くする為に創作されたものであろう。

2)多三郎狸は、源義経が平家討伐の為阿波から讃岐入りした時、阿波からお供をして屋島へきて棲みついたと言う説があるが、元々屋島で生まれ育ったので、その説は誤りであるという。 

3)屋島山上の土産物店で販売している狸の焼き物は、全部信楽焼であると、森清店主から聞いたが、屋島独自のものとして屋島焼が復活できないものであろうか。

 

3.多三郎狸の出陣

 1)日露戦争に出陣           青木正彦氏より聞書

日本が明治三十七、八年にロシヤと戦端を開いた時、乃木将軍が率いる善通寺第十一師団・丸亀第十二連隊は、二百三高地攻略の戦いに参加した。

言わずもがな屋島出身の兵士も、この師団・連隊に所属していたので、二百三高地の激戦に参加して多数の戦死者をだした。この戦況を心配した多三郎狸は、高松の淨願寺の白禿狸と相談してこの戦争に参加した。これによって、日本軍を大勝利に導いたと言う。

 2)日露戦争に参戦           大西シゲノ氏より聞書

日露戦争の時、戦争に参加して、日本を大勝利に導いたという。

 3)日露戦争に参加           新田庄市氏より聞書

明治三十七年に勃発した日露戦争の時、乃木将軍が総司令官として率いる、善通寺第十一師団及び丸亀第十二連隊は二百三高地へ出撃した。この戦争は熾烈を極め、屋島では新田氏の叔父、新田紋太郎氏他十二名が戦死した程の激戦であった。
戦死者

松木喜一 歩兵少尉    谷東松太郎 歩兵一等卒    山口秋蔵 歩兵上等兵    鎌野庄次郎 歩兵一等卒
吉岡音吉 歩兵上等兵   偸伽寅吉  歩兵一等卒    谷岡喜太八 歩兵上等兵   岡田千三郎 歩兵一等卒
新田紋太郎 歩兵上等兵  大高晴治  歩兵一等卒    佐々木善吉 歩兵一等卒   木村恒吉  歩兵一等卒  
三浦庄吉 歩兵一等卒
露軍もさることながら、我が軍も多大なる損害を被った。これを憂いた多三郎狸は、四国の狸を全員屋島に集めて、自らが総大将となって出陣した。玄海灘を航行中に各自は得意の術で、鉄砲や機関銃に化けて朝鮮半島に上陸した。親友である淨願寺の白禿狸は、南京袋に小豆を一杯詰めて持って行き、それを敵前でばらまいた。すると一粒一粒が一人一人の兵士に変身して、それぞれが敵陣へ突っ込んで行った。
これにより日本軍は大勝利を収めた。

後日、乃木将軍とステッセル将軍は、かの有名な水師営のナツメの木の下で、硬い握手をかわした。この時、乃木将軍が小さい声で、
「ステッセル君、もっと頑張るかと思っていたが、案外、もろかったね」
「いや・・、乃木さん、前は精鋭な君の軍隊であるし、後は真っ黒な軍隊が波のように押し寄せて来たので、降伏したんですよ」    
「君の軍隊を包囲すべく、黒木将軍が進軍していたが、まだ到着していなかった筈ですがね」

二人は、狸の応援軍であったことを、知らなかったらしい。   

(註)当時の日本の陸軍の軍服は、黒色であったそうである。

 

4.屋島檀の浦の源平合戦

 1)演芸会を開く            藤岡元栄氏より聞書

昔、多三郎狸は満月の夜になると決ったように、一族郎党子狸まで集めて、屋島寺の『雪の庭』を舞台に、過ぎし寿永の昔の屋島の檀の浦の源平合戦の様子を、鎧武者の源義経になったり、弁慶になったりして、時には鳴り物入りで実演して見せていたという。

 2)源平合戦の実演           新田庄市氏より聞書

多三郎狸は年老いてからは、一番弟子の八兵衞狸に見守られて安らかな生活をしていたが、屋島寺に異変があると感じた時は住職に報告したり、住職が代替わりした時は、『雪の庭』を海に見立てて、過ぎし屋島の檀の浦の合戦の様子を再現して見せていたという。昭和十三年頃、時の安永住職は夢にこれを見たという。

このような言い伝えがあることから、安永住職から元高野山の管長であった尾崎住職に替わった時、香川新報の記者がこのことを取材に寺を訪れたが、新住職は、「そんなものは見なかった」と返事をしたそうである。

土地の人達は、
「言い伝えと言うものは、嘘が多いものであるから、見たと言ってくれれば良かったのに」

と言っていたそうである。 

3)源平合戦を見られる資格       天野龍鳳師より聞書

多三郎狸は屋島寺の住職が代替わりした時、屋島寺の『雪の庭』を戦場に見立てて、源平屋島の檀の浦の合戦の様子を、鳴り物入りで見せていたと言う伝説は、坂本住職が見たのが最後であり、その時以降この伝説が途絶えたと言うから、明治四十五年までであったと言う。

そして合戦の様子を見ることが出来たのは、地蔵寺住職が屋島寺住職に昇格した時、又、その弟子の地蔵寺住職から屋島寺住職になった人のみに、即ち、屋島寺住職と師弟関係にあった屋島寺新住職のみが見ることが出来たと言う。

 

5.屁力競べ              飛倉堅二氏より聞書

昔々、屋島の多三郎狸と阿波小松島の金長狸は、それはそれは仲の良い親友であった。ある時、つまらない一寸したことで仲違いしてしまったが、いつまでもこれではいけないと、勝負をして決着をつけることにした。

ある日、二匹は子分を引き連れて、約束をした讃岐と阿波の国境に出かけて行った。

先ず最初に多三郎狸が、石の立臼に尻の穴をあてがい、思いきり大きい大きい屁をこいた。すると立臼は高く高く舞い上がり、眉山のテッペンまで飛んで行ってしまった。

これを見ていた金長狸は、「奴もなかなかやるわい・・・」と眉山へ登って行って、尻をまくって、立臼に尻の穴をあてがい、讃岐の方に向って大きい大きい屁をこいた。すると立臼く高く高く舞い上がって見えなくなってしまった。皆で手分けして探したが見つからなかったので、『勝負無し』ということにして、それぞれ引き上げることにした。

多三郎狸が屋島へ帰ってみると、屋島寺の本堂の軒下に張った蜘蛛の巣に、立臼がひっかかってブラブラと揺れていた。

 

6.化け競べ              藤岡元栄氏より聞書

昔々、讃岐は屋島の多三郎狸と阿波は小松島の金長狸が『化け競べ』をすることになって、二匹は国境へ出張って行った。

多三郎狸が、街道筋の大きい松の木に登って東を眺めると、制し声高らかに、
「下に、下に」と大名行列がやってくる。先払いに続いて奴、毛槍、弓、鉄砲、徒士が粛々と隊列を組んでやってくる。
「金長も、なかなかやるわい」と松の木からスルスルと下りてきて、 
「もう、分かった分かった、それ位にしとけ、お前の方が俺より上手いわ」と言いながら、供先へ出て行くと、
「何を・・・、この百姓め、供先を汚すとは不届き者、そこへ直れ手打ちにいたしてくれる」
と言うが早いか、バラバラと侍がやってきて、散々殴られた。これが本当の大名行列だと、まだ気が付かない多三郎狸は、
「もうええが、分かっとる分かっとる・・・」
「何を言うか、この不埒者め」と又、コッピドク殴られたので、とうとう多三郎狸は気絶してしまった。
この光景を後に、参勤交替のため江戸へ向う行列は、何事も無かったように静かに通り過ぎて行った。
この様子を見ていた金長狸は、多三郎狸を抱き上げて、
「かわいそうに、もうこれからは、こんなアホなことは止めよう」と言いながら何時までも、何時までも涙を流していた。

    

 

 屋島の狸達

 

いたずら狸               江浪雪雄氏より聞書 

昔々、西潟元村の産土神である牛頭(ゴヅ)天王社(現在の八坂神社)の御旅所に、太いモクの木があって、その根元の腐った洞穴に狸が棲みつくようになった。

ある日、お爺さんがお婆さんに食べさせようと、狐寿司を買ってこの所へさしかかった時、
「お爺さん、何持っとんな」と人間に化けた悪戯狸が出てきた。 
「おぉ、これか婆さんに食べさせようと、狐寿司を買うて帰るとこじゃ」 
「ほぉな、お婆さんが喜ぶだろうの・・・」

こんな話をしている間に、狐寿司は小石にすり替えられて、お爺さんはすぐ横の大谷川に投げ込まれて、泥もぶれになった。

 

不動さん裏の狸             東原末義氏より聞書 

大橋前の不動尊堂が桝谷本家の前にあった頃、お堂と桝谷さんの間は相引川の北側の土手であり、又、道路であった。その頃、この土手道を狸が大勢集って、提灯行列をしているのを、度々見たことがあると言う。

 

焚き火をする狸             高杉イサエ氏より聞書

現在、四国電力学園と屋島総合病院がある所は、そのずっとずっと昔は田圃であった。

その頃、相引川の北側の土手は昼でも薄暗い程の松が生えており、沢山の狸が棲んでいた。ここの狸は仲間を誘って、時々この土手で焚き火をしていたという。

これは実際に見た人から聞いた話であるという。

 

大橋の牝狸               林 仲二氏より聞書 

昔、相引川に架る大橋(大橋前地区にある)の東側のお堂辺りに、可愛い牝狸が棲んでいた。

この狸はやさしい娘盛りの牝狸で、夕方になると娘姿に化けて、橋の東側に現れ村の若い衆を喜ばせていた。

このように奉仕の精神が旺盛な狸であるから、これを一目見ようとして夕方になると、若い衆がこの小さい石橋の大橋に集ってくる。頃合いを見計らって娘姿に化けた牝狸が現れ、着物の裾を捲りあげて皆の方へ向いて相引川をひとまたぎする。

この頃の人間の女性は、まだパンツをはく習慣がなく、着物の下はすぐ腰巻きであったから、娘狸も真似してかパンツをはいていなかったので、股間がモロに見える。

「いょ、ベッピン」と褒めると、益々股をひろげる。

この牝狸は年頃であったから、素晴らしい牡狸を見つけて結婚しただろうが、若い頃村の若い衆を喜ばたことを思い出しているだろうか。

 

明神橋の狸               鎌野松吉氏より聞書 

タダノ鉄工の前の旧国道十一号線(通称・観光道路)を横切ったら屋島登山道に続く。

ずっとの昔、この交差点の辺りの道路は舗装していなくて、田圃が続き民家は一軒もなく、大変淋しい所であった。この旧国道の北側の路側は東西に水路が走り、二間位の小さい木造の橋が架っていた。そしてこの橋のことを人々は明神橋と呼んでいた。

この橋に何時の頃からか、娘に化けた狸が出ると言う噂がたつようになった。

一度見てみたいものと、夕方暗くなって松吉さんが出かけて行くと、噂通り娘が南の方を向いて、明神橋のたもとに立っていた。

こんな話をすると、

「その娘は美人であったんな・・・」とよく聞かれるが、暗がりの中で後ろから見たのであるから、ハッキリと美人であったと返事ができないが、とにかく後ろ姿は美しかった。

狸が娘に化けることはないと思うだろうが、私が本当に見たのだから間違いはない。と言う。

(註)筆者が推測するところでは、狸の娘でなく人間の娘が松吉さんを待っていたのでなかろうか。

 

新川の狸

1)絣の好きな牝狸           鎌野ヨシヱ氏より聞書
「おたしが、うちのおっさん(久吉さん)と一緒になって間もなくのことであったけん、だいぶ前のことじゃけど・・・」

と、次のような話をしてくれた。

その日は、久吉さんが当番であったから、夕方暗くなって家を出て、いつものとおり、家のすぐ横の松の木が沢山生えている、新川の東土手道を通って南へ行き、氏部さんの少し手前辺りまでくると、後ろから誰かがついてくるような気配がした。

振り向いて見ると絣の着物を着た可愛い娘である。観光道路(旧国道十一号線)に出て、新川橋を西に向ってもついてくる。辺りはすでに暗いので、
「あんた、何処まで行くんな・・・」と尋ねてみたが何も答えない。 
「まぁ、いいさ」と、観光道路から春日川の西土手を春日塩田の方へ切れ込んだ辺りで後ろを見ると、何時の間にやら掻き消すようにいなくなっていた。

久吉さんは、
「あれは、近ごろ噂になっている牝狸だろう」と言っていた。と言うことである。

 

2)新川出水の狸            山田守廣氏より聞書

昔、大藪松太郎さんが、奥さんの実家の法事に出席するために小村(地名・オモレ)に行って、お土産を沢山貰って暗くなっての帰り道、新川橋の萬納駄菓子店の東側から、新川の東土手を北へ向っている時、この頃ここに出没する狸に騙された。

手に持っている筈のお土産は盗まれて食べてしまわれ、東の空が白々とするまで、川の中を歩かされてしまった。

朝、仕事に行く知合いがこれを見つけて、
「おぉい、大藪さん、そこで何しょんな」

この声で目が覚めた大藪さんは、少し格好が悪かったのか、何事もなかったような顔をして帰って行ったと言う。

 

3)饅頭をくれる狸           藤岡元栄氏より聞書

昔、新川の藤兵衞さんが新川の土手道を歩いていると、美しい娘が出てきて、
「私についてきて・・・」と言うので、疑うこともなくついて行くと、
「ご馳走をどうぞ」と言って、馬に食べさせる草を食べさされた。又、
「ご馳走をどうぞ」と言って、饅頭をだされたので、食べてみると、それは、牛の糞であったという。

この娘は昔から新川に棲む牝狸が化けていたものだと言う。

 

新川鉄橋の狸              天野和子氏より聞書 

昔、旧国鉄の新川鉄橋辺りには、沢山の狸が棲んでいた。ここの狸は時々集って、鉄橋の東側の線路道を提灯行列をしていたと言う。こんな情景を、新川橋の東側の千葉のうどん屋のお爺さんが、度々見たことがあると話してくれたことがあるので、本当のことだろうと言う。残念ながら何のための提灯行列であったかは分からなかったそうである。

 

御神灯の狸       

この御神灯は、初め志度線潟元駅の南の佐々木食料品店の北前にあったが、現在は大橋前不動尊堂の境内に移設されている。

1)庵治の魚売りを化かす        鎌野松吉氏より聞書

ずっとの昔、庵治から毎日魚売りがきていた。ある日、いつになく全部売り切れてしまったので、機嫌良く近くの酒屋で好きな酒をのんで、何故か御神灯の火袋に頭を突っ込んでしまい、今度は入った頭が抜けなくなってしまった。土地の人がこれ見て、この頃御神灯の近くに棲みついた、狸に化かされたのだろうと言っていた。

 

2)塩売りを化かす狸          佐々木義治氏より聞書

明治三十八年に塩が専売になる前は、自分で塩を造り自分で売っていた。このためこの頃は、遠くは阿波にまで行商に行っていたと言う。ある日、一人の塩売りが、今日は思いもかけずよく売れたと、一杯飲んで酔って大橋前まで帰ってきたところ、  どこでどうなったか分からないまま、御神灯の横に籠を置いて、火袋に頭を突っ込んで、
「アア、綺麗じゃ、面白いわ・・・」と言いながら、顔を血だらけにし、脚をバタバタとさせていたと言う。

これは近頃御神灯の辺りに出る、狸に化かされた姿であったという。

 

3)夜泣きうどん屋を化かす狸      藤川シズ子氏より聞書

昔、大橋前に夜泣きうどんの屋台が、佐々木の勘さん宅の北前の、御神灯の側に毎晩出ていた。このうどん屋の屋号は『ふじや』で、木枯らしの吹く冬ともなれば『ふじや御用・・・』と長く尾を引いた売り声が寂しく聞こえたが、又、それが食欲をそそったものだった。

ある日、この屋台の親父が何と思ったのか、御神灯の火袋に頭を突っ込んで抜けなくなってしまった。バタバタとあがいているうちに、何かのはずみでスッポリ抜けた。
「やれ、やれ」と思って屋台を見ると、うどんや揚物がすっかり何者かに食われてしまっていた。

これを見た土地の人は、
「大橋前には昔から狸がよぅけおるんで、化かされたんでは・・・」と言っていたという。

 

4)行商人を化かす狸          山田守廣氏より聞書

昔、屋島の塩業に携わっていた人達は、出来上がった塩を讃岐は勿論遠くは阿波まで行商していた。

この頃のこと、ある屋島の塩行商人が、阿波へ出かけて塩を売りきって帰りが遅くなり、暗くなった頃屋島まで帰ってきた。

大橋前まで来た時何故か佐々木の勘さん宅の北前にある、御神灯の火袋に頭を突っ込んで夜が明けてしまった。

そこへ浜仕事に行く友達が通りかかって、

「おい、お前何しょんじゃ」

「面白いノゾキが出来よんじゃ、お前も見てみ」

これはまさしく、大橋前に棲む狸に化かされた行商人の姿であった。

(註)ノゾキとは、昔、神社や寺の夏祭り秋祭りに店を出していた、俄かごしらえの見せ物のこと。ノゾキ代金を払って、物語の絵が次々と転回するにつれて、店主が情景を説明するのを、レンズを通してその絵を見る。レンズの付いたノゾキ窓は十五個位あったと思う。子供の頃、代金を払わずのぞいていると、店主に長い竹で叩かれたものである。

 

浦生の狸                藤川 厳氏より聞書 

だいぶ前のことになるが、散髪にきた松岡の善はんから聞いた話である、と言いながら次のような話をしてくれた。(藤川さんは理髪店主)  

これは、まだ屋島一周道路が舗装されていなかったと言うから、かなり古い時代の頃、『善はん』が知り合いの婚礼によばれて、沢山の土産物を貰って我が家の長崎の鼻に帰る時、浦生の浜辺辺りにきた頃は、もう暗くなっていた。

坂を登って鼻歌を歌いながら良い機嫌で、浦生と長崎の鼻の中程にさしかかった頃、左側の海から鰺網をひく威勢のよい漁師の声が、相当距離があるのに聞こえる。暗い夜であるし、道から海までは断崖であるのに何故か沖の鰺網の船が見える。船の胴の間には鰺が跳ねているのも見える。

「おぉい、若い衆少し鰺を分けてくれ」

「よっしゃ、まっちょりまい」と若い衆が崖を登ってきて、袋に一杯入れてくれた。

「ありがとう」と言って、横を見るとさっき置いた筈の土産物がない。

「さては、この頃噂の狸の仕業か」と、

翌日現場へ行ってみると、一面に食べ散らかした残飯があった。

 

饅頭をくわす狸             新田庄市氏より聞書  

長崎の鼻には、昔、四軒の家があった。この内の一軒に松岡善太郎さんが住んでいた。

昔は屋島には狸があちらこちらに棲んでいたので、沢山の人が狸を掴まえて飼っていたが、善太郎さんも何時も狸を飼って可愛がっていた。

ある日、善太郎さんが浦生からの坂道を登って我が家への帰り道、坂を過ぎて暫く行った所で美しい娘に出会った。

これは狸が化けた娘だなと思ったが、どうすることもできず化かされて、山道を徘徊してなかなか家へ帰れず、気が付いたらガンゼン堂の中へ入り、さっき娘がくれた饅頭を食べていた。この饅頭がなんと牛の糞であったと言う。

(註)ガンゼン堂とは、死者を火葬にする所。

 

太鼓橋の牝狸              藤川 厳氏より聞書 

昔、屋島の若者が、仕事を終えて帰宅途中先輩同僚に誘われて、古高松のバァ『いこい』に立ち寄った。元来酒に弱い若者は、暫く付き合いをしただけで、『いこい』を出た。

東照権現さんの参道を、北へ歩いて太鼓橋の辺りへ来かかった時、美しい女性が現れて、

「今夜、私の家へ来て、一緒にお風呂に入りませんか」と誘われた。

これが娘に化けた狸と知らない若者は誘惑にのって、一風呂お相伴することにした。

やがて若者は参道脇の松の枝に、着物や褌をひっかけて、真っ裸になり横の相引川に飛び込んだ。

ようやく朝になって、東の八栗さんの山が白み始める頃、ここを通りかかった友達が、

「おい、川の中で何しょんじゃ」

「おぉ・・・、お前か・・・、ええ風呂じゃ一緒に入らんか」

「早う上がれ、風引くぞ・・・」

それでも若者はスイスイと川の中で泳いでいたと言う。

 

神社裏の狸               山田守廣氏より聞書 

八坂神社の裏に、大力丸に乗り組む船乗りがいた。この家の表の角に足曲りの狸がいて、時々人間を騙していたと言う。

足曲りというから、事故で怪我をしたものか、人間に怪我をさされたので、人間に悪さをするのか、とにかく足曲りであった。

 

足まがりの狸              藤川 厳氏より聞書 

昔、志度線の潟元駅が新川鉄橋の西にあった頃、この駅辺りに足まがりの狸が出ていた。

足まがりと言うのは、あまりにも馴れ親しんで、人間が歩いていると足にジャレついて邪魔になることで、方言で言えば『まがる』と言うことである。

ある日、柔道の達人で御前試合に出場したことがある、屋島郵便局長の親戚の柏原某氏が、高松での用事を終えてこの駅に下りて、川の中の板橋を渡ろうと歩きはじめると、足にジヤレつくものがあって歩きにくい。

「ははぁ、これはこの辺りに出没する『足まがりの狸』だな」と呼吸を計って、思い切り蹴飛ばした。

するとどうだろう、狸かと思ったら松の根っこを蹴っていた。勿論怪我をしたが、その程度は公表されなかったので分からない。

 

第十五番塩田の狸            島  勇氏より聞書 

昔、島さんが子供の頃、島さんのお父さんは屋島の第十五番塩田に勤務していた。このため島さんも、時々塩田へ行くことがあった。 

ある日、用事があったので塩田へ行き、ついでに遊んだので遅くなって家路についた。

暗い塩田の土手道を北に向い、堀のあるところから右に方向を変えて、塩釜神社に向って歩いていると、暗い筈の土手道が白っぽく、ぼんやりと光って見える。道がよく見えるので都合が良いと、そのまま進んで行くと、白っぽい道が突然真っ暗になり、その右手に白っぽい道が見えてきた。

さっきは左の道であったはずだと思ったが、ままよと、右の道を歩きはじめると、突然浜の水路に落ち込んだ。

この辺りには、狸が出て人を化かすと聞いていたので、子供ながらに気をつけていたつもりであったが、見事に騙されてしまった。

 

第十九番塩田の狸            橋本義國氏より聞書 

昔、屋島西町に塩田があった頃、第十九番の塩田の土手道に、娘に化けた狸が出るとの噂がたった。この娘狸を見たのは何人もいると言うので、本当に出ていたのであろう。

(註)第十九番の塩田とは、現在の下水処理場の南のテニスコォト辺りにあった塩田のこと。

 

一本松の狸               明石栄一氏より聞書 

少し前までは、琴電志度線の古高松駅辺りを、土地の人は一本松と呼んでいた。

その頃、駅の南側の国道十一号線の中央辺りに八坪位の土地があって、ここに小さい祠があり大きい松が一本あった。

この松の木の根元に狸が棲んでいて、夜遅くなってここを通る人に、砂を投げつけていたという。

 

新池の狸                池内コナミ氏より聞書 

屋島神社(通称・東照権現さん)の参道を登りつめた辺りの、右手の小高い所にある池を新池と言う。

この辺りには、昔から人間を誑かす狸が棲んでいた。

ある日、近くの山地金一さんが用事があって、この池の土手道を通っていたところ、

「狸に化かされた」と言って慌てて帰ってきたかと思うと、布団を敷いて寝てしまったという。余程のことがあったのか、暫く仕事もしないで寝ていたという。

金一さんは、その後元気で軍隊に入隊したが、残念なことに戦死したという。

 

蛇の目傘をさす狸            藤川 巌氏より聞書 

昔、朝鷹酒造会社が隆盛を極めていた頃は、屋島郵便局のすぐ東側を北へ向うと会社の入口があったそうである。

この郵便局の前を東へ行った角辺りには、酒造会社の大きい酒樽の干場があって、ここは夜暗くなると、雨が降る降らないに関係なく、蛇の目傘をさして美女に化けた狸が立っていたと言う。

この狸が化けた美女は、いくら暗くても不思議なことに、着物の柄がハッキリ見えたし蛇の目の模様もハッキリ見えたという。

この狸は人間に悪戯することがなく、この美女狸を見た人が多いことからみれば、自分の美女ぶりを見てほしかったのかもわからない。