屋島居住の方が語った他地区の伝説


陶山峠の牝狸                 江浪雪雄氏より聞書          

昔々、牟礼村の大町から役戸へ抜ける陶山峠に、いたずら好きの牝狸がおった。

ある日、村の若い衆が砂糖絞めの仕事から帰る途中で、すっかり日が暮れてしまったので、少しは遠くなるが南回りの麓の道にしようか、淋しくても峠の近道にしようかと迷った末、少しでも早く家に帰ろうと、峠越えをすることにした。

新月が淡くこぼれる薄暗い峠の道を、少し東へ下った池の辺りで美しい娘に出会った。
「山道を歩いたんで、足が痛うてもう歩けんから、手を引いていた」と言う。
「よっしゃ・・・」

若い衆は前々から聞いていた狸が出たなと気づいて、こいつを連れて帰って狸汁にでもしようと娘の手をしっかり握って峠道を下りて行った。
「もし・・・、あんまり強う握るんで手が痛うていかんけん、手を握り替えていた」

若い衆は握り替えた手を、しっかり掴んで村まで帰ったところ友達が、
「お前、何持っとんじゃ、えらげにして・・・」
「狸つかまえたんじゃ今晩は狸汁じゃ、お前も食べにこい」
「何ぬかしとんじゃ、お前が掴んどんは松の木じゃ」
「何・・・、ほんまじゃ、手を握り替えた時にだまされたか」

 

いたずら牝狐                 江浪雪雄氏より聞書

昔々、三木郡の牟礼村に、人間の娘に化けていたずらする牝狐がおった。

ある日の夕方、村の若い衆が酒を飲んで良い機嫌になって、鼻歌を歌いながら家路についておったところ、向こうから美人の娘がやってきた。

擦れ違った時、娘が、
「もし、若い衆さん、私の家はすぐそこですから、一風呂浴びて 汗を落として、お帰りになってはどうでしょうか」
「いや、おらの家は近いけん結構じゃ」
「まあ、そんなことおっしゃらないで、是非どうぞ」

よせばよいものを、つい娘が美人であるのにひかれて、相伴することにした。
「湯加減はどうでしょうか」
「丁度、ええかげんじゃ」

やがて友達がやってきて、
「お前、さきんからブツブツ言いもって何しとんじゃ、早う野壷から上がらんか」

若い衆は田圃の畔道に立って、
「ええ風呂じゃ、ええ風呂じゃ」と繰り返しながら、辺り一面臭い匂いを撒き散らして、身体中が黄金色に輝いていた。

 

六萬寺の怪猫                 天野イセより聞書                     

昔々、牟礼村の六萬寺に年老いた猫がおった。

この猫は近所の猫達の頭領格で、横笛の名手でもあった。

温かい日には大抵何時もの寺の広縁で寝そべっているが、時々友達の家を訪ねては、世間話に花を咲かせて一日を過ごし、和尚さんにはことのほか可愛がられて、誠に結構な身分であった。

和尚さんが檀家の法事等で寺を留守にするときは、友達を招いて得意の横笛を吹き、他の猫達は庫裏から昨日の余り物を遠慮なく取り出して、手ぬぐいで姉さん被りなどして、猫踊りを始め本堂で大騒ぎをするのが常であった。

こんなある日、和尚さんは檀家に法事があって出かけたが、思いの他早く終ったので、草々に寺へ帰ってみると、
「六萬寺よ、何時ものように笛を吹いてくれんかの」
「いや、今日は口のはたに出物が出とんで、吹けんのじゃ」

本堂から漏れてくるこの話を聞いてびっくりした和尚さんは、翌日、早速老猫を呼び寄せて、
「お前も薄々気付いておると思うが、かわいそうじゃが、これからは寺に置いてやることが出来ないので、好きな所へ行って生活しなさい」 

こんこんと諭して小豆飯をご馳走してやった。老猫は寺での最後の食事を済ませると、後を振り返り振り返りしながら出て行ったまま、二度と寺には帰らなかった。

このことがあってからは、家で飼っている動物に小豆飯を与える時は、別れを意味すると言われるようになったと言うことである。

 

丸山峠の怪                  川田忠義氏より聞書   

昔はどこの家の子供でも、兄弟や近所の友達と連れ立って、途中に淋しい所があっても、かなり遠くても、祭といえば追っかけて行ったものである。

川田さんが子供の頃、庵治の神社の秋祭に弟と一緒に行ったことがある。

庵治の町に入るには、長い坂の丸山峠を越さなければならないが、その頃のこの峠は、両側は山が迫り、覆いかぶさるように松の木が生えていて、昼でもなお暗くて淋しく、頂上にはお地蔵さんが一基祠られていた。

弟と二人は石を投げたり、道の草をちぎったり、ふざけながら頂上に着いた時、くたびれ果てたような独りの坊さんが、お地蔵さんの傍らで休んでいた。

ただの坊さんであったので、恐ろしくはない筈であるのに、何故か二人は、恐怖感におそわれ、
「ワァ・・・・」と大声をあげながら走って、庵治の町まで駆けおりたと言う。

大人になった今でも、それが何故であったかわからず、このことを思い出すと、あの恐怖感がよみがえると言う。

(註)坊さんは、どこかの人の四国遍路の旅姿であっただろうが、その恐怖感は峠にすむ妖怪の仕業でなかっただろうか。

 

高 坊 主                  天野徳次より聞書    

徳次爺さんは、慶応三年十二月十二日生まれの私の祖父で、これは、祖父が三十才か四十才の頃のことであると言うから、明治三十年か四十年の頃のことであろう。

その頃、祖父は四国民報(現在の四国新聞の前身であるかもしれない)に勤務していて、その日は早出の当番の日であった。

当時の四国民報は、現在の印刷技術が発達した近代的な新聞社と違って、記者から原稿を受け取ると植字して印刷し、それを配達するまでが一般社員の仕事であった。

その日もいつもの通り、ガッタンガッタンと大きい音をたてながら、手動式の輪転機を回して一枚一枚印刷し、ようやく夜中頃に作業が終ったので、早速、浜ノ町方面の配達に出かけた。

淋しい午前三時頃の暗い冬の凍てついた道を、弘憲寺の門前辺りへさしかかった時、どこからともなく、ザワザワと風の吹くような不気味な音がした。

暗がりの中を目を見開いてよく見ると、前の方から何やら黒い物がこちらへ向かってくる。

すぐ近くまでやって来た黒い物は、恐ろしさに寺の塀に身を寄せていた祖父の頭を衣の袖で撫でて、ザワザワと音をたてながら南の方へ去っていった。

後を振り返って見ると、身の丈が二丈程もあったので、あれは話に聞く高坊主であったのか、と思った途端に背中に悪寒が走ったと言う。
「お爺さん、そんな化けもんは聞いたことがないで・・・」
「お前は見とらんけんそんなこと言うんじゃ、お爺さんは見たんじゃけん・・・、高坊主はほんまにおるんぞ」

しかし、その後、祖父が見たという高坊主や火の玉、幽霊に出会ったことがないので、今でもなお半信半疑であるが、それでも、大橋前の川田忠義さんは、高坊主に会ったという人を知っていると言うので、本当の話かもしれない。

 

火 の 玉                  天野徳次より聞書 

これは、祖父徳次が十五、六才の頃、木太村に住んでいた頃の話である。

その頃、祖父の家は八坂神社の南隣にあって、紺屋を営む兼業農家であった。

今でもそうであるが、農家では田植えが終り夏近くなれば、田圃の灌水作業におわれることになる。

その日も、祖父は父に言いつけられて田圃に行き、水を入れるために、水路に取り付けてある水車に上がった。

夜中頃まで踏み続けたので、
「もう、よかろう」と思って水車から下りようとすると、八坂神社の南西にある溜め池の方から、
『ウォォン・・・・』という尾をひいた不気味な音が聞こえてきた。何だろうと振り返って見ると、自分の方に向かって青白い玉のような物が飛んでくる。頭を下げてそれをやり過ごすと、又、前の方からこちらめがけて飛んでくる。

それは、頭が風呂桶くらいあり、一丈くらいの長い尾をひいた火の玉であった。

何回も行ったり来たりしていた火の玉は、突然祖父の頭の上空で止まると、不気味な音をたて渦を巻いて回転しだした。

そこでとうとう祖父は気絶して、水車から転落して水路に落ち込んで、何が何やら判らなくなってしまった。

やがて、自分を呼ぶような微かな声がしたので、そっと目を開けてみると、祖父の父が畔に引き上げて介抱してくれていた。父に火の玉の顛末を話すると、
「帰りが遅いので表に出てみたら、田圃の方から池の方へ青白い物が飛んで行くのが見えたので、もしやと思って来てみたんじゃ」

祖父は、その後二度と青白い火の玉を見ることはなかったと言っていたが、父もそれが何であったか知らなかったので、今もその正体が判らないと言う。

 

さ ら し 首                天野徳次より聞書 

昔々、藩政時代の頃、讃岐松平藩の罪人の処刑場は、現在の高松市花園町の家畜屠殺場のある所であった。

この場所で何時頃から何時頃まで処刑が行われていたかは、調査をしたことがないので知らないが、私が子供の頃は隣町の松島町に住んでいたし、小学校はこの町の子供達と同じ東浜尋常小学校であったから、この処刑場の跡地(その頃は家畜屠殺場はなかった)へは時々遊びに行ったことがある。

処刑場は、御坊川に沿った西側の道に面して東向きに入口があり、入ってその正面に受刑者の霊を祀っていたのか、小さい御堂があった。御堂の南手はあまり広くない原っぱがあって、いつも雑草が生えていて、原っぱに踏み入ると、必ずと言ってよい程何かしら背筋が寒くなるような感じがして、すぐ飛んで帰ったものだが、それでも肝試しのつもりで、子供達はよくここへ遊びに行ったものである。

祖父が子供の頃、祖父の父が紺屋を営んでいたので、罪人を処刑した日に、店の若い衆にカタクマ(肩車)されて見に行ったことがあったと言う。勿論、処刑の様子は見ることができないが、切り落とされた首が木製の柄杓の柄に突き刺されて、御坊川橋の欄干に縛り付けてあった生首を見たことがあると言う。祖父は今でも、その情景の強烈な印象が忘れられないと話してくれたことがあるが、その頃は、祖父がまだそんなことを記憶しておく程の年齢になっていなかったと思うので、おそらく、祖父の父か誰かにに聞いた話でなかろうかとは思うが、どうであろうか。

明治初年頃までは、祖父がまだ子供髷を結っていたという、古い古い昔の話である。

私が小学生になった昭和時代になっても、処刑場や橋の欄干辺りに人魂が出ることがあったと、花園町で小さい鉄工所をしていた同級生の蓮井君のお父さんや、川魚の商売をしていた川西君のお父さんから聞いたことがある。

七十才のお爺さんになった今でも、どうしても通らなければならない時以外は、処刑場跡地や御坊川橋は避けて通ることにしている。

 

魚  魂                   天野 忠 

私が水路部(現・海上保安庁水路部)に勤務していた、昭和二十年の初夏の頃、徳島県日和佐湾の水路測量を命ぜられて沿岸測量に従事していた時の話である。

宿舎にしていたのは、作業に便利なため最も海岸に近い日和佐漁業組合の二階であった。

その日は天候が悪化してきたので、沖での作業を中止して早々と宿舎に帰ってきたところ、朝茹でたのであろうか天日干しをして煮干しにするために、鰯の小さいのが、あさい四角の籠に一杯いれて、所狭しと並べてあった。

部屋に帰り測量成果を整理して、夕食も終り就寝して間もなく小便が出たくなったので、灯火管制で暗い階段を踊り場まで下りると、何やら闇の中で青白いものが一面に光っている。光はポッポッと息をしているようなものや、光り続けているもの、離れて宙を舞うものがある。ビクッとしたが近付いて見ると、籠の中にいれてある鰯である。

まだ見たことはないが、人魂とはこんなものであろうかと、小魚であることが分かったので、口に入れてみると美味い。部屋に帰ると、まだ起きていた青森県出身の鈴木一曹が、
「天野一曹、口の端が青白う光っておるぞ、それはなんじゃ」
「おぉ、これか。魚魂じゃ」

話には人魂は聞いていたが、これは魚から出たものであるからと、魚魂と名付けたがどうであろうか。

 

人  魂                   天野 忠 

新田町に住む伯父天野時次郎が死んだ日の夜、近所の人達がお通夜のため伯父の家へ来る途中で、伯父の家の西の棟から幾つもの人魂が飛ぶのを見たと言う。

この日は、今にも雨が降りそうな夜であったという。

 

人  魂                  波多江種一先生より聞書 

波多江先生が、肺結核のため新田町の国立療養所に入院していた頃、雨が降りそうな日の夜になれば、病室から見える墓場から、青白い人魂が飛ぶのをよく見たとおっしゃっていた。

 

お化け屋敷                  天野 忠 

私が子供の頃は、皆一様に貧乏であったから、大抵の家庭は借家住まいであった。

したがって家を借りる場合、賃貸借契約をする等の難しい手続きがなく大家と店子の信頼関係だけであったし、面識がなくても大抵は簡単であった。そのような具合であったからか、貸家が余っていたからか、一つの町内には一軒や二軒位は貸家札が軒先にぶら下がっていた。

そのような状態あったからか、大家によっては空家を手入れするでなく、荒れ放題に荒れてそのまま放置されている貸家があちこちにあった。

あれは私が小学校の三年生の頃であっただろうか、築地小学校の西に比較的大きい二軒続きの荒れ放題の二階家の貸家があって、そこに何時からかお化けが出るとの噂がたったことがある。

毎晩夜中になると、
「女のすすり泣きの声が聞こえる」
「いや、あの声は叫んでいるような男の声だ」と喧々愕々で、人々の間では見てきたような、尾鰭をつけた話が大きくなり、夜中になると大人達が一目お化けを見ようと、この家へつめかけるようになった。毎晩大勢の見物客がくるので、気の利いた夜泣きうどん屋が屋台を引っ張ってきて、商売をするようになった。一晩に五十人位の人が見物にくるので、大変な繁盛ぶりであったという。

私もお化けなるものを一度見たいと思って、学校から帰って鞄を放り出し友達を誘い、悪童三人組で探検に出かけて行った。

その家は、玄関を入るとかなり広い庭があって、庭の東側に高い木が二本あり、草がボゥボゥと生い茂っている。中へ進むと一階の座敷らしい部屋は、破れた障子や襖が倒れて物凄い様相を呈している。
「出た・・・」と誰かが言ったので、背筋に悪寒が走りそこを飛び出て後をみ見ずに帰ってきた。大人達はこんな所へ夜中にくるのか、たいしたものだ大人は強いと思った。

この後お化け屋敷の噂はしばらく続いたが、何時とはなく沙汰やみとなったので、母に聞いてみると、あの声は首輪をしたまま捨てられた野良犬が、苦しがって泣いていた声であったということであった。

 

ヨロヨロ船                  天野 忠 

東北地方では、亡霊船や幽霊船のことをヨロヨロ船と言うらしいが、これは水路部(現・海上保安庁水路部)に勤務していた、昭和二十年の夏、徳島県日和佐湾の水路測量に従事していた頃、地元の漁師・島田さんから聞いた、敗色濃くなった太平洋戦争末期頃の実話である。

日和佐湾から外海へ一漕ぎ出ると、そこはすぐ太平洋である。

ある夏の日、沖の方から右へ左へヨロヨロしながら、大浜海岸をめがけて一隻の船が近付いてくる。この様子を見つけた一人の漁師が仲間に伝え、浜に集まった人達は、アメリカの船でないかと警察へ連絡に走る者、役場へ報告に走る者で平和な日和佐の町は大騒ぎとなった。

やがて近寄ってきた船は、ジャリジャリ音をたてながら、砂浜に乗り上げて停止した。よく見るとこの船は三十屯位の日本の機帆船で、微かなエンジン音がしている。人の気配がないので不思議に思って二三人が飛び乗ってみると、甲板は血の海で、これが地獄図会かと思われる光景が目にはいった。

舳先に据えられた一丁の機関銃に一人の日本海軍の兵士が、握把を握ったまま倒れている。右舷甲板には三八銃をもった若い兵士が折り重なって倒れている。操舵室の前には一人の兵士が、胸を撃ち抜かれて倒れている。操舵室には下士官がさっきまで舵をとっていたのか、舵輪を口にくわえた姿勢で頭を撃ち抜かれて死んでいる。後甲板には、若い兵士が倒れている。機関室に下りると一人の下士官が、エンジンに倒れかかって息絶えている。
「おーい、早おう上がってこい」

皆で一人一人の呼吸をうかがったが、誰一人として生きている兵士はいなかった。

これは、太平洋戦争末期の壮絶にして哀れな、一地方でおこった実話である。

この徳島県日和佐町の大浜海岸は、今では海亀が産卵のため上陸する町として人々に知られているが、昔、悲惨な出来事があった所であることを、今では何人知っているであろうか。

 

志度の兄弟                  天野イセより聞書 

昔々、讃岐の国の志度村に、大変仲の良い兄弟がおった。

兄は山猟師で、弟は海漁師であった。

ある日のこと弟が、
「兄さん、今日は志度寺の十六度市やし、観音さんのお参りも永いことしとらんので、志度へ行ってみょう」と誘ったが、兄はやり残した仕事があったのか、鉄砲を肩に背負い何時ものとおり山へ入っていった。

弟は、久しぶりに市の賑わいを見物して、観音様のお参りも済ませて本堂で、ありがたい住職の法話を聞いている時、山の方からズドーンと一発の銃声が聞こえてきた。
「兄さんやったな、・・・獲物はなんかいの」と思った途端、仏罰があたったのか、見る見る細くて小さい蛇の姿に変わってしまった。

知り人の知らせによって、このことを聞いた兄はびっくりして、とった獲物も忘れて志度寺へ飛んで行き、変わり果てた弟の姿を見て、涙ながらに家へ連れて帰った。

こんなことがあって後も、兄は山猟師をしながら、今まで以上に兄弟仲良く活していたが、弟は年を経るにしたがって体が大きくなり、とうとう家に入れきれなくなったので、
「永いこと仲良う生活してきたけど、こんな小さい家では一緒に住めんぐらいお前は大きくなってしもたんで、かわいそうやけど裏の池に移ってくれんかの・・・」と弟を諭して、兄は弟を背負って裏の池に連れて行った。

それからも兄は、とれた獲物は必ず弟に見せてあたえ、弟は今日あった色々の出来事を兄に話して、兄弟愛は益々深まっていったが、数年もしない間に弟は大蛇となって、又、この池にも住めなくなってしまった。
「兄さん、こんなに大きくなってしもうては、この池にももう居れんけん、屋島の西の海にある、大槌島と小槌島の間の瀬戸に連れて行っていた。これからは、日照りが続く年に酒を詰めた一斗樽を、その瀬戸に投げ込んでくれたら、私が飲んですぐ浮き上がらすけん。そしたらその御礼に大雨を降らすことにするけん」

兄は弟の健気な願いを聞いて、別れに涙しながら弟を背負って山を下り、志度の浜から舟で瀬戸に連れて行った。

これから間もなく、弟は龍神となり讃岐の国は日照りの年でも水に困らなくなったという。

 

グ  ツ                   江浪雪雄氏より聞書 

昔々、屋島のあるメンバ(地区)に、グツという真面目だけが取柄の子供がおった。

ある日、おっかあに、
「グツよ、米をといでしかけとるけん、飯を炊いとけ」と用事を言いつけられた。

早速、竃にコクバ(松葉)を詰め込んで炊いておると、釜から、 
「グツグツグツグツ」と呼ぶ声がする。
「ハイハイハイハイ」いくら返事をしてもグツグツと言うので、グツは怒ってしまって、釜を土間に叩きつけてしまった。

又、何時かの日、おっかあに、
「グツよ、今日はおじゅっさんがお出でとるけん、お勤めが済んだら、風呂に入ってもらうけん、風呂を焚いとけ」と言いつけられた。

早速、風呂桶に水をいれて、風呂を焚いた。
「おじゅっさん、風呂が沸いたけん入っていた」
「おぉ、グツか、ありがとう。うん、こりゃチョット温いぞ。もうチョット焚いてくれ」
「もう、コクバが無いんじゃ」
「そこら辺にあるもん、なんでもくべたらええが」
「よっしゃ」

おじゅっさんが一風呂浴びて出て見ると衣が無い。
「グツよ、ここに置いとった衣が無いんじゃが、お前知らんか」 
「さっき風呂にくべてしもたで・・・」

困ったおじゅっさんは、おっかあに茶袋を借りて、何時も他人より大きいと自慢しているチンポコを大切に袋に入れて、袋の紐を首に掛けて寺へ帰って行った。