相 引 川                       

 

相引川は、松平頼重公が東讃岐の初代藩主になって後に、屋島が昔 島であった名残を留めようと造成した人工の川である。

このことについて、木田郡誌の第二節河川の項に次のように書かれている

『往古の相引の海にして、生駒氏の時埋めて塩濱となせしを、正保四年松平頼重の命により、堤を築きて川となし、昔の樣を存せり』 

また昔、長老が屋島誌を編纂しようとして書き残した原稿によれば、

『大字西潟元・東潟元にあり。潮汐東西より来たり東西に去る。故にこの名あり』 とある。

昔は、海水が東と西から出入りして川底が見え、魚もまた見える程美しい川であった。

その頃、子供達は、夏がくるとこの川でよく泳いだものである。満潮の時等は琴電相川の鉄橋から競争で飛び込みをして遊んだ。干潮の時は、三軒の落とし橋の西側辺りに、白い通称餅搗き蟹が穴から出てきて大きい片爪で、餅を搗くようなしぐさをする。この蟹が広い範囲で、夏の太陽を受けて餅を搗く姿は見事で美しかった。又、目が飛び出て頭の大きい飛び鯊が、水の上をピョンピョンと飛ぶのも面白かった。大きい足音をさせると蟹は一斉に穴の中に隠れ、鯊は水の上を飛んで向う岸へ行く。蟹も鯊も素早いので子供では捕えることができなかった。

西の川下では海草のオゴが沢山生えていて、これを取って米のとぎ汁でよく洗って晒し、オゴ豆腐を作る。これはカラシ味噌をつけて食べると美味い。酒好きの人にとってはこたえられない珍味であった。このため、地元の人達は勿論、新田・川添・木太辺りからも、夏の暑い太陽もなんのその、弁当を持って乳母車等を押して沢山の人がやってきていた。

この辺りは、三軒の落し橋や朱塗りの電車の鉄橋等、子供の絵の材料になる風景があちこちにあったので、豆画伯の格好の遊び場所にもなっていた。

この川も、昭和38年に洪水対策等のため、相引川の東西に自動水門が完成して、海水の出入りが停止した頃から川が汚染され始め、今では鮒やボラ等の川魚はいるが、黒鯛等の魚の住めない川となって久しい。

昭和50年3月には、相引川に架かる大橋の架け替え工事があり、昭和55年には、三軒の落し橋が西のポンプ場建設工事のため取壊しとなり、昭和59年11月琴電志度線相引川鉄橋は架け替え工事により、この鉄橋は約1m高くなった。

 

和 歌  敵味方引分れぬる 武士のしるしか 今に相引の汐

俳 句  相引の 汐干に見たり 平家蟹