電  車 (琴電社史より) 

 

大橋前地区の南を走るのは、JR高徳線であるが、大橋前地区内を走る唯一の鉄道は、琴電志度線である。

現在の琴電が昔、鉄道会社を開業するための許可申請書を提出していたが、容易に営業許可がおりず、やっと、明治42年6月8日鉄道

会社としての営業許可がでたので、資本金100万円で東讃電気軌道株式会社を設立し、本社を浜ノ町において鉄道敷設工事に着手した。

明治44年に本社を浜ノ町から松島町の今橋に移転し、この年の秋、今橋駅より志度駅間が開通した。

    開通区間  今橋駅ー志度駅間 6区間 12.1Km

    運  賃  1区間3戔 今橋駅より志度駅まで19戔

この時会社より、大橋前地区の現在地に駅舎を設置したいと、地区の長老に申出があったが、

   「そんな便利な乗物の駅ができたら、若い衆が夜遅くまで遊んで困るけん、駅は作らさん」

と猛反対したので、駅舎は志度線新川鉄橋の西側のカーブの所に、春日地区であり大橋前地区ではないが、潟元駅が建設された。

(昔の地図参照)

その頃、今橋から志度までは乗合馬車が運行されていて競合していたという。

明治44年4月22日、かねて工事中であった今橋駅から栗林公園の北門までが接続開通して、この辺りに栗林公園駅ができ、これより逐次旧国鉄高松桟橋駅まで全線開通した。

大正5年8月19日、四国水力発電株式会社と合併して、社名を東讃電気軌道株式会社から四国水力発電株式会社と改称し、電車部門として営業を継続した。

この時、4輪駆動・客50人乗り・35馬力電動機2機を備え、総重量9トンの最新式の電車を購入した。

大正6年、景山甚右衞門が第2代目社長となってから、同年8月潟元村に東照宮前駅(現屋島登山口駅)が誕生する。

大正8年1月、運賃を改正し、1区間1戔とした。これにより全国で最低運賃と評判となり、志度線が有名となった。

かねて、現陸上競技場の北東辺りに建設中の屋島グランドが、大正13年9月完成したので、同月12日屋島神社の宮司により開場式を執り行い、3日間記念野球大会を開催した。この時、グランドの北側にあった旧東条産婦人科医院近くの屋島駅(一般に屋島グランド駅と言う)は、後、この辺りは民家が少なく、乗降客もあまりなかったので、昭和6年2月屋島駅を廃止し、鉄橋の西にあった潟元駅も廃止し、屋島駅と旧潟元駅の業務を吸収して現在の潟元駅が開業した。

その後、屋島グランド駅はグランドで陸上競技会や野球大会が開催される時は、臨時に停車していたという。

ちなみに、屋島登山鉄道は昭和2年4月に開通した。

戦時中には、志度線の内八栗駅から志度駅まで及び今橋駅から築港までの区間は、兵器生産のため線路が取り外されいたが、戦後は八栗駅から志度駅までは線路が再び敷設され、瓦町駅から築港駅までは廃線となったままとなっていたものの、瓦町駅から高松築港駅まで、直通の線路が敷設され昔の面影を一新した。

 

(参考)昔の志度線は、本社は今橋駅にあって、木田郡志度町の志度駅から、高松築港駅までであった。戦後は古高松駅から屋島登山口駅までの区間のうち、屋島登山口駅の東、東照宮橋辺りから古高松駅までの一部の線路道が変更になった。

 

また、松島二丁目駅(昔、松島町は10丁目まであり、この駅の辺りは松島四丁目であったので、松島四丁目駅と言っていた)から沖松島駅までの一部は大きく急角度にカーブしていたが、線路道が変更になり比較的緩やかなカーブとなって、旧線路道は国道11号線の下になっている。

今橋駅より築港駅までは、瓦町駅(琴平方面へ行く時はこの駅で琴平行きの電車に乗り換える)を過ぎ、栗林公園駅(栗林公園の北門辺りにあって、この北門を出ると土産物店が並び賑やかであった)を北折して、明善高等女学校前を通り、八本松駅(この駅に比較的太い八本の松があった)・広場(兵庫町の割烹天勝の西交差点辺り)を過ぎて、旧国鉄高松駅(現在のJR高松駅の西・戦後火災により焼失)・高松築港駅に至る鉄道であった。