不 動 明 王                     

 

そもそも不動明王は、インドにはじまり、チベット・蒙古・中国・日本などの全仏教文化圏に広く信仰され、多くの尊像が制作されている。しかし、その起源は明らかでなくインド経のシヴァ神に関係があることが推定されているのみで、大乗仏教が広まり始めた末頃から『不動』を説く経典が見られるようになり、大日経によって明王の地位を最高のものとしたと言われている。

その姿態には種々あるが、多面多手の憤怒の形像にはじまり、一面二手の童子に至るまで徐々に展開してきたものと見られ、インドや日本のものは、前期の多面多手のものが多いと、ものの本には記録されている。

しかし、屋島の溜池畔に祀られている石像の多くは、一面二手であり、大橋前地区に祀られている不動明王尊像も右手に剣を捧げ持っている一面二手の尊像で『大橋前の不動さん』と愛称され、地区内は勿論、地区外の多くの人々から篤く信仰されている。

この大橋前の不動さんは相当古くから祀られていると思われが、その記録が無いので建立された時期は、寛永19年(1642)に松平頼重公が東讃岐12万石の領主になって後、慶安元年(1648)頃、屋島が昔島であった名残をとどめようと、公が相引川を造成したとあるので、これより後に建立されたものであろうことは、想像にかたくない。

お堂は、大橋の北東の桝谷本家の前にあった頃、傷みが激しくなったので、昭和36年4月に大橋前地区在住の大工中条貞夫氏によって改修され、この後、行事も多くなり手狭になったので、昭和40年4月お堂の東側に軒を作って炊事場を増築した。

その後、大橋が大改修されることになったので、大橋改修工事を請負った、松田工業株式会社によって、昭和50年現在地に移転された。

その後、参拝者の増加により堂内が狭隘になったので、お堂の西側に鎌野工務店により、部屋を増築して現在に至っている。

はるか昔から、桝谷本家前にあった頃のお堂の西側の道路は、大橋前地区を抜けて屋島寺への遍路道であったので、四国八十八ケ所巡拝のため、第八十三番一ノ宮寺からやってきた巡拝者は、旧11号線の屋島への入口に立つ『一のみや・やしま』と刻された地蔵尊石像を拝して、大橋前の不動さんに参拝一服して元気をだし更に進み、佐々木の勘さん(フードセンター・ササキ)北前の御神灯の側に立つ、右脇に『これよりやしま寺十九丁』左脇に『一のみや百五十丁』と刻された地蔵尊を拝んで、「もう一息だ」と、第八十四番屋島寺へ向かったのであろう。(この地蔵尊と御神灯は、現在のお堂の敷地に移転している)

昔は毎年正月と盆の月に、大護摩を焚いてお祭りをしていたが、特に盆には浪花節などを奉納していて、これを楽しみに近郷近在から大勢つめかけて大変な賑わいをみせていたが、戦後は盆の時期は暑いからと大護摩焚きを中止し、浪花節奉納も途絶えて久しい。

春の四国巡礼がはじまる頃には、地区の人々がお不動さんに集まってお接待をしていたが、これも途絶えて久しくなった。

又、昔は不動さんの御命日にはアラと言う丸いムスビが出されていて、子供達はよく貰いにいったもので、手が汚れている時は半紙にのせてくれたが、紙についた飯粒を一つ一つ拾って食べるのも楽しく美味しいものであった。時には小豆飯のムスビが貰えた時は嬉しかったと長老が語っていた。

現在は、盆の大護摩が中止となっているので、毎月27日を御命日として、地区の人達や志のある地区外の人によって、お祭りが執り行われている。