流 行 病(はやりやまい)

     

明治12年の虎列刺(コレラ)病大流行

この年の3月頃より、コレラが流行しはじめ、盛夏の頃になって益々蔓延して至るところで多くの患者をだした。予防消毒を励行し、港から旅客が上陸することを禁止し、祭祀供養などで人が集まることを禁止、種々撲滅の策をこうじたが容易に鎮静せず、多数の死亡者をだした。10月になって発病者が減少した。

 

 明治16年の赤痢と腸窒扶斯(チョウチブス)

明治16年に赤痢が流行し、木田郡の患者は80名、その中54名が死亡した。

 

 明治19年の虎列刺(コレラ)病

5月よりコレラが流行して、蔓延の兆しがあったが、予防消毒を厳重にし、発病の誘因となるものの販売を禁止したが、木田郡の患者は130名にのぼり、その内死亡者は90名にもなった。

 

 明治27年の赤痢病

炎天打ち続き灼熱のためか赤痢が流行し、木田郡では928名の患者をだし、282名が死亡した。

 

 明治29年の虎列刺(コレラ)大流行

この年の夏コレラが大流行した。罹病者の家庭ではいずれも患者が隔離されるのを嫌って隠蔽につとめ、民間薬に頼って治療に努めたため、重症者が続出して多くの者が死亡した。このような状況であるから、病毒の伝染が早く益々猖獗を極め、村役場は駐在所と協力して、毎日3回戸別訪問をして健康調査を実施する等防疫に努め、これにより発見した疑似患者も悉く隔離病舎に強制収容した。

しかし、全村をあげての努力もむなしく、鎮静に向う様子もなく猛威を振るい、罹病者は日に日に増加して多くの人が死亡した。狭隘な隔離病舎は限度があるため、東山地の南方相引川付近の田圃に仮小屋病舎を急設して患者を収容した。このようにして村当局は全職員をあげて、不眠不休涙ぐましいまでの看護にあたった。

さすがの猛威を振るったコレラも、爽秋を迎えて鎮静化し終息した。

このコレラ防疫に要した費用は莫大な金額となり、時あたかも小学校改築の時期であったので、村財政は窮乏に陥った。

この後、仮病舎跡には夜半赤子の泣声がしきりに聞こえ、村民は亡くなった患者の亡霊の叫び声であると流言したので、人々は夜戸外に出るのを怖がったと言う。

 

 明治34年の赤痢病

記録によれば大事に至らなかったとあるが、木田郡では罹病者78名死亡者30名とでている。

 

 明治35年の虎列刺病

この年のコレラは、本県は全国の中心のような観があった。最初は岡山で発生したものであるが、従来岡山とは人の出入りが頻繁であることから、患者は日増しに増加し、全力をあげて撲滅に努めた結果、11月になって終息した。

木田郡の患者194名、 死亡者113名。

 

 明治37年の赤痢病

5月古高松において発生、予防法適用の命令をだして防疫に努め、大事に至らなかった。木田郡の患者20名、死亡者10名。

 

 明治41年の赤痢・天然痘

この年、赤痢猖獗を極め、木田郡で患者693名、死亡者193名。又、1月天然痘流行の兆しがあり、15才以下の者に臨時種痘を行う等、十分な防疫措置を取ったが容易に終息しなかった。木田郡の患者32名。

 

 大正7年の流行性感冒

9月頃より風邪に罹る子供が次第に増え、学校の運動会の練習が過激なためであろうと噂していたが、大人にもおよぶようになり、10月になった頃は、罹患する者が増え、酷い家では全員が病床に伏す状態で、小学校では臨時休校を余儀なくされた。

このため死亡者が続出して葬儀場のみ繁盛した。

一般の人がマスクを用いるようになったのも、この頃よりのことであると言う。