地 蔵 寺

 

寺 名 寳幢山延命院地蔵寺

宗 派 真言宗高野派(初め古義真言宗御室派 平成6年変更) 

本 寺 真言宗南面山千光院屋島寺

所在地 高松市屋島西町中央

本尊は一般に行基菩薩作の木仏坐像と伝えられているが天野住職によれば、延命地蔵菩薩木仏像の体内より取り出された地蔵菩薩木仏坐像であるということである。体内より小さい地蔵菩薩木仏坐像を取り出された延命地蔵菩薩木仏像は、約250年前に、大川郡鴨部の長福寺に贈られた。


1、 草創の地

一般の記録によれば、行基菩薩が現在の地より西に草創したとあるが、行基菩薩が西潟元村中央の現在地に地蔵菩薩像を祀ったのがはじめで、この後、西潟元村成久に移転したものであるが、これを誤って伝えられたものであろう。

この地は大橋前地区の略中央部辺りの、大橋前公民館、同館東隣の高杉繁氏、同氏の南隣の高杉泰雄氏、同氏の西隣の高杉輝男氏、同氏の西隣の堤勇氏、中村勝義氏等六家が居住している辺りであったとの言い伝えがあり、その頃、成久における寺領地は約8反歩の面積があったと言う。このことから、草創の地は中央の現在地であったと言う。

天野住職の記憶では、寺領地の南西隅(現・堤勇氏宅地の南西隅)に寺専用井戸があり、中村勝義氏宅地には何百年も経たモクの大木があった。この大木が日陰を作ること広範囲であったので、大正12、13年頃、ある人がこの木を切り倒そうとしたところ大怪我をしたので、地蔵寺住職がこの大木を供養すると、その後は、こんな事故が起こらなくなったと言う。


2、草創の年

行基菩薩は、俗性を高志氏と称し和泉国大鳥郡の人で、百済王の子孫といわれ、天智天皇七戌辰年(668)に生まれ、15才で出家した奈良時代の高僧である。

行基菩薩が全国歴遊を始めたのは、元明天皇和銅3年(710)に亡くなった母の死より以前のことであったらしいので、地蔵寺建立の年は、元明天皇和銅2年(709)以前の頃か、もしくは聖武天皇発願の東大寺の仏像造立のため請われて、天平15年(743)勧進のため巡錫の旅に出たので、この期間でなかろうか。

尚、昭和61年に大橋前公民館を建設すべく、村井建設が工事を開始した時、建設地は寺跡であるから注意して掘削し、瓦のカケラ1個でも捨てないように指示し、毎日のように現場へ行き調査したが、寺跡の証拠となる物が発見できなかったので、草創の地や年を特定することができなかった。

これは公民館建設の場所が、当時の寺の建物の位置よりずれていたためであったからであろうか今後、大橋前公民館の周辺が、工事のため掘削する時があれば、是非調査してみたいものである。


3、修造 

イ、峨天皇弘仁元年(810)弘法大師が屋島寺を建立した時、地蔵寺が荒廃しているのを見て修造し、花蔵院と号したという

ロ、10年(1582)の夏、土佐の長宗我部元親が四国を平定しようとして、讃岐の国に侵攻してきた。この頃の戦の

習いとして、軍営として利用できる神社仏閣は総て焼き払われるのが常であったので、西潟元村成久にある地蔵寺も、又戦塵にみまわれて大破してしまった。

文禄元年(1592)沙門良印と山地刑部が謀って相引川の北方に再興したとあるが、沙門良印については、現段階では記録がないので詳細は不明であるので、出自調査は寺録の発見を待つことにする。山地刑部については、天野住職によれば、古くからの地蔵寺の檀家で、西潟元村中筋の住人であり、その子孫は屋島醤油会社の上に住む、山地頼一氏であると言う。 

(註)山地頼一氏よりの聞書。

山地氏宅は、昭和20年7月4日の高松大空襲の時、焼夷弾によって全焼となり、古文書等は灰燼に帰し今では証拠となる物は無いそうである。よって頼一氏が父滝次郎氏から聞いたことは、次の通りであるという。

先祖に刑部と言う人がいて、地蔵寺を建てる時に貢献した。また、将監とも言っていたと聞いたことがある。

刑部とは、刑部省の役人。

        将監とは、近衛府の判官。

いつであったか、地蔵寺の先代住職から、「山地家の先祖の刑部という人から、昔大変お世話になっているので、困った事があれば、何時でも言うてきなさい」と言われたことがあるそうである。 

ハ、イ・ロ共に修造した場所は成久の地である。


4、移築 

この後に至って、地蔵寺より東の讃岐の寺の諸事を担当していた京の僧清澄が、延宝年中(1673より1680)成久の地より、現在地である中央の地に新たに移築したとある、今 清澄の墓は地蔵寺墓地にあり位牌もあると天野住職の話である。


5、修造

地蔵寺は、山田郡東前田村下所の代々庄屋を勤める、野口家の檀寺であったので、時の庄屋六兵衞が修造したと言われていて、現在の堂宇はその時の建物であろうという。六兵衞は、忙しい庄屋を務める傍ら、文学に秀でて俳句を嗜み、その俳号は沙月と称し、讃岐松平藩第九代藩主松平頼恕より褒章されたと言う。そして六兵衞は人のため世のために尽くしたという。

  (註)野口六兵衞の4代の孫、野口信作氏は高松市前田東町に住み、その隣には御子息が病院を経営している。


6、その他

     仏像 不動毘沙門天       弘法大師作

        薬師如来像        海中より出現

        辨財天・鍾馗・牛頭天王  鎮守社に祀つる

          延命地蔵菩薩石像    本堂の南にあり(別称 嫁いらず地蔵)   

   宝物 聖観音          聖徳太子作

        如意輪観音        弘法大師作

        阿弥陀仏         恵心僧都作

        木首     往昔首実験の習礼の時使用した物  

 

平成9年、地蔵寺の客殿と庫裏が大改築されているので、古文書等が発見されれば寺史が判明するものと思われる。