興 亜 中 学 校 (松下 靖 著 「建学の精神」より)                     

 

丸亀市広島町の出身である山口嘉次郎は、戦前に朝鮮の新義州(鴎緑江畔)で林業を経営していたが、大陸へ雄飛する有能な人材を育てるために、私財を投じて学校の設立を計画し、昭和15年、紀元二千六百年記念事業として、屋島山麓の大橋前地区に9,641坪を購入して、山口財団香川県興亜中学校を開校した。

第1回生として35名が入学し、32名が県内出身者であったが、県外は2名で、韓国からはソウル出身の李一範君が入学した。第2回生は36名全員県内出身者が入学したが、第3回生は、北朝鮮旧中江鎮から日本名田村君、香川君が、また、旧満洲吉林省から日本名井川一路君が入学してきた。

学級編成は、1学年1学級35名とし、全寮制であった。

初年度は校舎などの建築が間に合わず、屋島国民学校(現屋島小学校)の教室を借用して授業を行い、寮は屋島小学校の東南にある新池の上の石井邸を借りてこれにあて、地元出身者は特別に規定が設けられ、自宅から通学することが許されていた。

昭和16年3月に校舎1棟(管理室2、教室3)が完成したものの、寮はまだ建築中であったが、この年の6月に完成したので、これより全生徒は新校舎での授業が始まった。

寮は1棟8室、部屋は定員4名の8畳の和室で、一段下に板の間の勉強室があった。

寮は2棟の他に食堂、調理室、寮父室、付属施設があったが、この後、3棟増築して5年生まで全員収容できるようになった。

この中学校の特質ともいえる学科には、語学が英語の他に、支那語やマレー語があり、放課後を利用してオートバイの訓練があったことだろう。

興亜中学校が開校された年は、昭和12年に日華事変が勃発して3年目で、中国大陸では戦線が拡大し、昭和16年12月8日太平洋戦争が開戦となる1年前であったから、建学の精神から他の中学校とは比較にならない程、学校生活は極めて厳格であったという。他の中学校でも同様であったが、戦争が激しくなると共に、労働力を失った出征兵士や戦死者の家へ、初夏は麦刈り秋は稲刈りと勤労奉仕が続くようになり、工場への勤労動員も実施されるようになった。

この頃、同窓生は、海軍飛行予科練習生を志願する者や、陸軍航空隊に入隊する者、戦車学校・特種幹部候補生となって軍籍に身をおく者も出るようになってきた。

このような世情騒然とした中、昭和20年3月21日、各界の名士を招聘して、興亜中学校における最初で最後の5年生4年生の合同第1回卒業式が挙行された。

当日出席した者は、半数は大陸方面へ就職し、又、軍籍に身をおいた者、進学をした者がいたので僅か37名であった。

昭和20年8月15日敗戦と共に、その年の9月校名は屋島中学校と変更になり、12月安永初代校長は退職し福崎校長が就任した。昭和21年度からは2学級100名の募集定員としたが、昭和23年学制改革により、再び校名が屋島高等学校と変更になり、新制中学を併設したが、寮は約3,000坪の敷地と共に県農業協同組合連合会屋島総合病院へ売却。昭和24年第1回の新制高校卒業生11名を送り出したのを最後に、同年4月から高松市立高松第一高等学校に統合された。

廃校の原因は、建学の精神がGHQで問題にされたとも、財政的に行き詰まったとも言われているが、残しておきたかった異色の学校であった。この後、残された校舎や講堂、運動場は、昭和31年4月、四国電力株式会社へ売却され、地域の人に親しまれ愛された興亜中学は、大橋前地区における唯一の思い出の中学校になった。