高 松 空 襲

 

昭和20年7月5日の「朝日新聞」の報道によれば

   B29頻りに中小都市を狙ふ(B29・米国空軍爆撃機)

   250機分散来襲 姫路 高松 徳島 高知

 

 中部軍管区司令部・大阪警備府発表(四日十時)

  1、南方基地の敵B29約250機は七月三日深夜より四日未明にかけ、五群に分れ、管区内数地区に波状侵入せり。

  2、敵の攻撃を受けたる地区、次の通り

若狭湾及び山口西部沿岸に機雷投下、姫路・高松・徳島・高知各地に焼夷弾並に爆弾投下。     

  3、損害及び戦果は調査中

  4、敵は今後なほ中小都市の攻撃を続行すべきをもって被害減少に関しあらかじめ準備を必要とす。(大阪)

 

 四国軍管区司令部発表(七月四日九時)

サイパン基地のB29約150機は三波に分れ七月四日午前一時頃より単機又は数機の編隊をもって逐次、高知、徳島、高松に侵入、焼夷弾攻撃南方に脱出、これがために各地に火災発生をみたるもそれぞれ八時三十分までに概ね鎮火せり。被害目下調査中、最近敵の中小都市攻撃は逐次本格化の傾向にあるをもって、あらゆる官民防空施策を即刻断行すべきである。(大阪)

 

米軍資料 A 日本本土爆撃概要によれば

  7月3日 N(夜間)

目 標    高松都市地域

  爆撃部隊名   58   

  出撃機数   130   爆撃機数  119

  投下トン数  高性能弾   24.3トン

         焼夷弾   808.8トン

         全投弾量  855.4トン

  この時、日本軍機の迎撃は無く、米軍の損失機数 3機 人員損失 1名

爆撃の成果 1.4平方マイル(78%)に破壊又は損害を与えた。

 

『高松の空襲』手記・資料編の年表によれば

 7月3日  23時空襲警報発令。米軍機B29の爆音は空を圧したが通過しただけ。

 7月4日  0時近く一時警報解除。間もなく警戒警報発令、それも解除さる。

1時41分再び空襲警報発令、と同時に大空襲の火ぶたがきられた。

マリアナ基地の延べ119機が高松上空に来襲、5時頃まで何度にもわたる波状攻撃。このように、猛烈な爆撃であったから、高松の中心部は勿論のこと、西は旧高松経済専門学校(現香川大学経済学部)・旧男子師範学校(現香川大学教育学部)・旧香川県立工芸学校(この学校は、男子師範学校の北にあったが、現香川県立高松工芸高等学校として、旧香川県立高松中学校跡地へ移転)を結ぶ線辺りから、東は、高松刑務所の東辺りまで。北は、東浜町・北浜町・寿町・浜ノ町を結ぶ海岸線から、南は、JR高徳線の南まで殆ど高松市は壊滅してしまった。この爆撃は高松市の中心部だけでなく、屋島山中にも沢山焼夷弾が投下され、大橋前地区にも3発投下した。

そのうちの1発が鎌野喜代美氏宅を直撃し炎上した。

 

鎌野喜代美氏談(当時屋島国民学校高等科一年生)

昭和20年7月4日の夜中の1時41分空襲警報発令と同時に、西の高松市街に火の手が上がった。

間もなく家の西側や東側の道を、乳母車に荷物を乗せた人や、わずかな荷物を持った人々が、また、夏布団を水に浸して被った人が続々と百石や新川の新端土手に向かって避難しだした。

当時、農家は労働力として牛を大切に飼育していたが、鎌野家でも2匹の牛を飼育していたので、父(喜八)が、

「俺は大きい牛を出すから、お前は乳牛のベベンコを連れ出してくれ」 

「よっしゃ・・・」とばかり、父と二人で、牛を琴電志度線の潟元踏切り辺りまで連れ出したところで、後ろで物凄い爆発音がした。振り向いて見ると、我が家に焼夷弾の直撃弾が命中したらしい。  

父は、

「俺は家を見てくるから、お前は牛を避難させとけ・・・」

家へ引き返した。

小さい体に二匹の牛は大変であるが、一匹はそのままにして、ベベンコを引いて、踏切りの南西側の田植えが済んだ田圃に引き入れた。田圃の真ん中辺りに電柱があったので、これに綱をゆわえつけ、大きい牛を田圃の中へ連れて行こうとしたが、爆音や爆発音と火の手に驚いた牛は、前足を突っ張って動こうともしない。どうにかこうにか、大きい牛も電柱につないで家に引き返すと、家は爆風のため、玄関や窓の戸は吹き飛ばされ床はめくれあがり無惨な状態であった。父が何をしていたのか全く記憶にないが、とりあえず食料が無くては大変と、天井から吊りさげていた飯籠を抱えて外へ飛び出した。

紅蓮の炎となった家へ再び引き返そうとすると、父が、

「もう、引き返すな危険だ、家はあきらめよう・・・」

これが鎌野家が太平洋戦争で罹災者となった顛末であったと言う。大橋前地区に落下した焼夷弾の1発は高杉先生宅の裏であったが、土塀によって炎上は免れ、高杉文次宅前に落ちた焼夷弾は、畑に大きい穴を開けたが、家には被害がなかったと言う。

この時、鎌野家の水瓶は無傷のまま遠く飛ばされていたが、その時の記念として、今でも大切に保管していると言う。