水 事 情 と 水 道 管 敷 設                 

 

大橋前地区は、昔、遠干潟を干拓して出来た地区であるから、その影響で住民は、水、特に飲料水の確保に苦労してきた。

相引川の東西に、昭和38年自動開閉式水門が完成して、淡水化するまでは、干満に応じて海水が出入りしていたので、相引川の水域の水田は何時も塩害に悩まされていた。又、毎日の生活に欠くことができない飲料水には格別に苦労していた。

その頃、各家に井戸があっても、相引川に近い所では塩気がさしていて、これよりかなり離れた場所でも黒カナケで飲料水としては不適当で、井戸水は僅かに洗濯や風呂水に使用されるくらいであった。しかし、その風呂水も大変貴重な水であったから、地区の全戸に風呂の設備があったわけでもなかったので、貰い風呂をする家が多くこの風習があった。

このため、旧家であろうと、金持の家であろうと、そうでない家であろうと、どこの家にも大きい水甕を炊事場に備えていて、檐い(ニナイ)で『五軒屋の井戸』から水を運搬して、水甕に蓄えて飲料水としていた。

そのための朝夕の水汲みは、誰かが、どうしてもやらなければならない毎日の仕事であり、大橋前地区の全家庭が『五軒屋の井戸』を利用していたので、時間がくればこの井戸に、水汲みの人達の行列が出来る程であった。

この『五軒屋の井戸』といって、地区民の生活を支えていた井戸は、八坂神社の御旅所の南の小橋を渡ってすぐ西側、佐々木都重宅の裏にあって、真夏になると小学校帰りの子供達が、この水を飲んで一息いれて帰宅したものであるが、遠くから水汲みにくる者達にとっては、大変な仕事でもあった。

なれた者は腰で調子をとりながら、一滴もこぼさず家へ運びこむが、馴れない者は何回も休みながら家へ帰ってみると、桶の水がかなりこぼれている。

このように、水のため永年苦労してきたが、昭和27年に旧国道11号線の南、JR高徳線の鉄橋東北側に、地下水をくみ上げる方式の簡易水道のポンプ場が完成し、高松町の帰来まで水道管を敷設し送水されるとの情報が入ったので、山地和次郎及び佐々木義治の両氏が、大橋前地区にも送水されるよう高松市役所へ陳情に出向した。

国東照太高松市長に面会して、大橋前地区における水事情を説明し、送水をお願いすると、

  「高松でまだ水道が来ていない地区があるのか。それは知らなんだ」

と、即決で予算がつけられた。

早速、臨時総会を開催して水道管敷設について協議したところ、

市役所へ出向する前に予備的な会議をしていなかったためか、

  「今まで水がタダで使えていたのに、金がいるとは・・・・」

と、水道管敷設に反対する者が多くいたが、とにかく将来のことも考えて敷設することにした。

このような状態であったから、通水当初は、1戸に1蛇口が普通で、なかには数軒が共同水道とする者もいたが、とにかく昭和27年12月17日に待望の水が送水された。

昭和32年8月1日には、水源池から送られる上水道となり、現在では、大橋前地区の先輩達が、かって経験したことが無い程の恩恵に浴している。