大 橋 前 の 成 り 立 ち

 

昔々、私達が住んでいる大橋前地区が、海であったことは衆知の事実であるが、これは、松平公益会所蔵の屋島の檀の浦の源平合戦の様子が描かれている屏風絵や、屋島寺の宝物館に展示されている源平合戦図の掛軸によっても明らかであるが、春日の人、宇治原春哲が古地図・古文書によって作成したものによれば、屋島は八坂神社の南側の波打ち際から、南は入り海となっている奥の端の、久米八幡宮の北側までが海であったという。
天文17年頃(1548年)の地図(宇治原春哲    

これにより、昔々の大橋前地区は完全に海底であったことがわかるが、このことについてかって、琴電志度線の新川鉄橋が改築の時や、一般に観光道路と称されている旧国道11号線に架かる新川橋の改築、及び、国道11号線に架かる新川大橋の橋脚工事の時、相当深くまで掘削していたので、かつては海であったという、証拠となるものがあるかと注意していると、三橋の橋脚部分のすべての掘削された底部分は、黒い泥混じりの砂で、浅利貝や潮吹貝の貝殻が沢山出てきたのを見たことがあるので、大橋前地区が海であったということが証明されるであろう。

屋島と古高松が、いつ頃陸続きになったのであろうか。

史実によれば、生駒親正が天正一五年(1587)讃岐一七万石の大守となって来讃後、その曾孫高俊が父正俊の跡を継いで四代目藩主になった時、高俊の外祖父である藤堂高虎の家臣西嶋八衞が、寛永二年(1625)高俊に招かれて二度目の来讃の時、寛永七年から同八年にかけて、香東川の川筋付け替え工事や、高松東部の新田開発に努め、この時、おおむね久米八幡宮から屋島までが陸続きになったという。

この後、生駒高俊が跡目相続に絡むお家騒動により失脚して、出羽国由利郡矢嶋庄へ堪忍料一万石で移封になってから、水戸の徳川頼房の子頼重(水戸光圀の兄)が寛永一九年(1642)に東讃岐一二万石の讃岐松平家初代藩主になって後の、正保四年(1647)より慶安元年(1648)までの約二年間で、昔、屋島が島であった名残りをとどめようと堤防を構築して相引川を造成し、併せて、東浜村(現・高松市松島町)から春日村(春日町)・古高松村(高松町)を通り志度村(志度町)に至る国道を造ったが、この時、屋島の百石新田も造成したという。

これにより、おおむね大橋前地区が完全に陸地となり、現在の原型が出来上がったのではないかと思われる。

この時、旧11号線に架かる新川橋の少し東より八坂神社へ通じる、屋島への幹線道路ともいうべき道路の途中に相引川が造成されたので、ここに小さい橋であるが『大橋』も同時に構築されたのではなかろうか。

昭和20年当時の大橋前住宅略図