大  橋

 

大橋前』という地名は、地区内を流れる相引川に架る『大橋』があることから、名付けられた地名であると思うので、先日、佐々木義治氏に、これについて伺ったところ、そうであろうと言う。又、構築された当時はおそらく土橋であったと思うが、それが改築され、頑丈で、しかも舟の交通も可能なように石造りの太鼓橋にしたものの、橋の中央部が湾曲しているので、すべったり転んだりして危険であったため、後に平たい石に変わったが、太平洋戦後は交通量が増加したので、当地区内の土木業者氏部組によってコンクリートの橋に架けかえられた。

しかしその後、益々交通量が急増したので道路改修にともない、昭和五十年三月に現在の大橋になり、トラックが通行してもビクともしない、頑丈な橋に変貌した。

 

この大橋について次のような記録がある。

寛政十二年(1800)に幕府は、伊能忠敬に蝦夷地を測量させ、これに続いて全国の測量を命じて、十七年の歳月を費やして日本全土の測量を終え、日本輿地実測図を完成したと木太郡誌にある。

この時、四国の測量は、文化五年(1808)正月二五日に命ぜれて、同年三月十六日から開始し、十一月八日までの間に阿波・土佐・伊予を経て讃岐に入った。

讃岐の測量は、文化五年九月九日より十一月四日までであったが、木田郡における測量は、十月二四日木太村の海岸線から始まり同月二六日木田郡牟礼村大町金山で終わる三日間であったという。

 

このとき、御案内役を仰せ付けられた、古高松村の庄屋上野瀬平の海岸測量日誌には、次のように記録されている。  
文化五年十月二四日、坂部殿(忠敬の下役坂部貞兵衞)御先手ニテ、西潟元相引大橋ヨリ測リ初メ、同村新濱北手ニテ小休芝立、長崎鼻晝所芝立、檀の浦大羽戸ニ測リ終ル。  以下省略 

 

この大橋の周辺は、昭和三八年に洪水対策等のため、相引川の東西に自動開閉式水門が建設されるまでは、潮入り川であったから、潮順によっては、大橋の南土手でのんびりと釣り糸を垂れていると、海の魚がよく釣れたものである。 

仕事から帰って、

  「鍋を洗ってまっとれよ・・・」と出かけると、

大抵夕食までにボウズが食卓にのぼったものである。

魚種は主として、通称ボウズといわれる二才物のチヌ(約15cmから20cm位の黒鯛)や、食べたことはないが、奥から流されてきた鮒であった。