災 害

     

宝永4年(1707)の地震             
7月10日 星月を貫く。
8月12日 雨激しく。
8月19日 大風。
9月12日 大風雨、海浜の堤決壊家屋破損す。
10月3日 夜、天晴れるも月見えず。

      10月4日 殊の外暖かにして単衣物を着る。未の時(午後2時)地大いに震う声は電の如く、地裂け水湧出す。
河海に瀕える砂地特に甚し。

木太詰田川東大路析くること6尺余。山下堅原粘土析くと雖甚しからず。

五剣山の一峰崩墜して火光電の如く響遠く聞ゆ。墓石は悉く倒れ、井筒皆突出し、家屋檣壁を壊崩し、結構堅固なりと雖一として傾かざるなし。

翌日より、少しづつ震る事度々なり。海潮多く満ちて、常より五六尺高く、堤も破るるもの多し。又流言あり、近日又大震あり、高汐来るべしと人々恐れて仮屋を作り、米を携へ、海汐来らば山へ逃べしと用意したり。此時近畿は元より、駿遠参も甚しく、11月23日には、富士山噴火して、江戸為に晝も暗かりきという。

 

享保7年(1722)の大風雨

6月23日大風雨があった。8月14日も前のような大風雨があり、同月22日にも雨が激しく降り、23日になって、再び大風雨となり、堤防ことごとく決壊し田や野原は海のようになった。山崩れがおき溺死者は110人を越し、牛馬も多く災害に遭遇した。木田郡では、木太・春日の海浜の堤防が決壊して床上浸水の災害を被むり、路傍に草屋を建てて避難する者が多くいた。

 

安政の大地震

孝明天皇安政元年(1854)甲寅霜月4日より振動が始まって、5日に収まったが、5日は最も激震で故老の体験したところでは、震幅が約2尺(約60cm)もあったので、腐朽した家屋は全部倒壊し数多くの死傷者がでた。この大地震が終わって後、1ケ月間は微弱な震動が続き、地上を歩くと半乾きの泥地の上におるようであり、この時、海を隔てて高松方面を見ると、火炎が天に冲して驚駭阿鼻叫喚物凄く聞こえ、実に凄惨なありさまであったという。

この様子を高松藩記は次のように記録している。

 

高松藩記曰

安政元年十一月四日地大震封内人家傾頽者三千餘爾後日夜大小震不止士民造草舎寝処十数日至明年夏而後復常公(公とは高松藩10代藩主靖公松平頼胤のこと)命賜士民金穀修繕牆屋是歳有年

 

明治26年の旱魃

この年、28日間雨が全然降らなかった。

 

明治27年の旱魃

この年の夏は、炎天が40日間続いて一滴の雨も無かった。水源や井戸は枯渇して、池沼河川などは水が涸れた底土に亀裂が生じて、物凄い惨状であったという。殊に田植えの時期を目前にした農家では、朝夕天を拝んで慈雨の降ることを願ったが、雨雲のひとかけらも見ることができなかった。

夜ともなれば、県下の各地で雨乞い祈祷の火が、物凄く天に冲して、その有様は凄惨というよりほかはなかったという。

屋島では農民が協議して、登山鉄道山上駅の北三叉路付近に割り木を積んで、金刀比羅宮の御神火を頂いてこれにより大火を焚いた。

 

明治29年の水害

明治29年8月30日午後4時より同10時に至る間に、非常に激しい豪雨が襲い、県下の東西が洪水となり水が氾濫した。

 

明治30年の大雨

9月29日の雨は、多度津測候所の計測によれば、降雨量184mmに達する大雨であったが、この大雨は海岸部が主であり、山間部では少量であったので、洪水氾濫等はなかった。

 

明治30年浮塵子の被害

8月の稲の出穂期にウンカが大発生し、稲葉は青色を失い一面の水田は黄白色になり、惨澹たる状況になった。

これは、日清戦争の直後であったので、惨殺した清兵の亡霊が化けて仇討ちしているのだとの流言が広がった。

当時は害虫駆除の知識が全くなかったので、農民達はウンカのことをサネモリと言って、夜、篝火を焚き「サネモリ送り」と連呼しながら、これを追い払う位しか駆除法を知らなかった。このような手段でウンカが全滅させうる筈もなく、ウンカは益々発生して、稲藁を焼きすてる者もあって、収穫高は1反歩(10アール)当り所謂砕米が1斗余りであった。

 

明治31年の暴風雨

明治31年9月29日の暴風雨は、烈風というよりはどちらかと言えば、水害であった。

 

明治32年の暴風雨

明治32年8月28日夜8時頃より烈風が吹き荒れ、深夜に及んで雨が加わり物凄い暴風雨になった。雨戸に突き当たる風雨は小石を叩きつけるようで、家の大国柱は左右に振動し、家屋が今にも倒壊するのでないかと思われるようであった。南浜第1番の釜屋の煙突から出火したが消火活動ができなかった。翌日周囲を見ると、稲はことごとく倒伏し、地蔵寺の山林はすべて倒抜して、自然の猛威を見せつけていた。新浜第10番の釜屋の屋根は飛ばされて、長崎の鼻に漂着していた。

 

明治40年の大雪

2月10日午前10時頃よりいやに底冷えを感じていたところ、淡墨色の空から白雪が降りはじめ、夜になってからは綿雪となり、翌朝になって見ると白雪皚々の様相を呈し、雪の深さは8寸3分8厘に及んだ。

 

大正元年の大洪水

大正元年9月21日、連日の豪雨のために池沼河川が満水して、町民は洪水襲来の予感に恐怖の念をいだいていたところ、果たして24日の夜になって、新川・春日川の堤防は満水に耐えられず、数箇所にわたって決壊した。このため濁水はたちまち田圃を泥海と化して、その余勢をかりて相引川の堤防をも決壊してしまった。   翌朝になっても減水の様子がなく、時々刻々水量が増し水深は床上3尺から5尺に達し、大橋前の民家では慌てて天井裏に避難した程であった。

南を展望すれば、青田は眇々とした泥海に変り、その泥海は屋島小学校下の二ツ池の麓まで襲い、渦巻く激流の響きは水魔の雄叫びのようであった。泥海に漂流するのは、箪笥・農具・家屋・木材・家畜等。又、琴電志度線の軌道は流失し、電柱はことごとく倒壊して、見るも無残な惨状であった。

桝谷至雄氏によれば、この大洪水に遭遇した祖父磯平氏は、水面からわずか出ている樹木に、逃げ場を失った青大将や縞蛇が一杯いたのを見たと、昔を思い出すように語っていたと言う。

この日、屋島青年団は二ツ池の麓から舟に乗り、一致協力して最大被災地春日方面へ救助にむかった。

 

昭和6年の大雪

2月9日午後2時半頃より降り始めた雪は、10日午前7時になって止んだ。庭に積んだ雪は、7寸5分にもなった。

 

昭和9年の旱魃

5月13日に降雨があってから、梅雨期にはいっても雨が少なく、7月13日に少量の降雨があったので、農家では一斉に田植えを済ませた。この後旱魃が続き、前後108日の日照りに、善通寺第11師団山砲隊による実弾射撃で雨乞いをし、各地では焚火をして雨乞いをした。

9月1日に坪当り、4斗の降雨があって旱魃は解消した。

 

昭和9年の台風

9月12日、マリヤナ群島の南方海上に発生した台風は、初め西北西に進んでいたが北に方向変換し、19日夜半に沖縄の南南東約200Kmの洋上に達し、北東に転じて21日の早暁に高知に接近した。台風の中心は徳島市の西を通過して、淡路島を縦貫して北越を通過して海上に出た。この台風は最近にない猛烈な暴風雨であった。

室戸測候所の観測では、21日午前5時10分風速毎秒45mを記録し、大阪・京都・兵庫・和歌山では、小学校が多く倒壊して学童の被害が多かった。大阪湾は高潮のため浸水し、家屋が倒壊し溺死者が多くでた。

 

昭和51年の大豪雨

屋島にはと言うより、かつて香川県には大災害をもたらす台風が度々来襲して、大橋前地区の先輩達はこれらの多くを経験してきた。 昭和51年には、9月8日から13日まで豪雨が降り続き、1年間の降雨量を越す大豪雨となり、地区の長老も、かつて経験しなかったと言う程の大洪水にみまわれた。

農業協同組合屋島支所西の大谷川の東堤防が決壊して、それより東南の水田は冠水して稲の姿が見えず、南に下がって五軒屋辺りの大谷川の堤防が決壊して、床上・床下浸水の被害を受ける家屋が多く、又、大橋前地区の幹線道路ともいえるこの辺りは、激流のため歩くに困難となった。

平常の高さに建つ家屋の多くも床下浸水し、比較的低地にある家屋は床上浸水の被害に遭遇、家屋によっては、床上数十Cmにもなった。

近所の家より一段と土地が低い家は、床上50Cmの浸水となり、当時はまだ便所が昔式であったので、家中を糞が漂って掃除をするのに苦労したと言う。