寺 子 屋

 

徳川幕府は、乱の気性を制御しようとして、盛んに文教を興し儒教や経書を教えたので、これより、各大名は競って学校を建て教育を行い領内を教化した。

高松藩でも、元祿の頃より学黌を造り、藩の子弟をあげて就学させ、大いに教育の実をあげたが、これらはみんな藩士を薫陶するためであって、藩士の子弟以外はこれの恩恵に浴することができなかった。

したがって、農工商の子供達は、手習師匠や寺子屋に通う以外に勉強の場がなかったので、その程度では、期待する程の教育効果をあげることができなかったという。

屋島における一般教育の機関としての寺子屋について、次のような記録が残されている。

手習師匠や寺子屋の教師は、普通『お師匠さま』と呼ばれていて、医師・隠居・書家・神主などがこれに当っていて、校舎としては特別の施設がなかったので、自宅を校舎として利用していた。

学科は普通読み書き算盤で、国語習字は『イロハ歌』『五十音』『村附国尽し』『商売往来』等で、算術は『八算』『見一』『平方術』まで教え、教科書として特に無く、全部師匠が筆書したものを用いていたという。

 

註 『村附国尽し』は、先般、屋島東町原田家の蔵を調査した時、『日本国尽し』なる古書が出てきてので拝見したところ、変体仮名で書かれた地理の教科書であったので、郡か村単位の地理の教科書であろう。『八算』『見一』は、元小学校校長に尋ねたが判らないと言うことであった。

 

生徒は、机や文庫を持参し、毎日、辰の刻(午前8時)に授業を開始し、未の刻(午後2時)で終業する。

入塾は男女共に6、7才より入学し、通常は3年であるが、7、8年も在学する者もいた。女子は長く就学することを恥辱とする風習があったので、通常2、3年から長くても4、5年で退き、裁縫の個人受業が普通であった。

束脩謝儀としては、盆、正月及び五節句に、2升米と少額のお金を納めるのが普通であった。

 

維新前後の屋島における師匠は次の通り。

 

岡島屋利平       西潟元村浜中

百  杣次  農業   西潟元村中筋

吉田  某       屋島村檀浦

柏原 元厚  医者   西潟元村御殿

磯部  栄  神主   東潟元村東山地

山田 玄肴  書家   西潟元村中筋