八 坂 神 社 由 来 記   

 

昔むかしと言われる程、遠いとおい昔から伝えられている物語や昔話は、記録によって事実として、また伝説として残されているものがあり、その他、人から人へ言い伝えとして、どうにか口碑伝説として残されているものなどがある。

私達の氏神様である屋島の八坂神社の起源についても、同様な運命を辿って今日に至っているらしいので、蔵書や記録から原文のまま抜粋してみることにする。      

なお、起源の出所などについては、それぞれの箇所で解説することとする。

 

 

屋 島 誌

この冊子は、屋島の歴史を記録をしておこうと計画してか、昭和十年頃であろうか屋島に在住の古老が執筆した原稿を、十数年前に拝読する機会があったので、これが散逸するのを恐れて、密かに書き写していたものを整理して、勝手に「屋島誌」と書名をつけたものである。残念であるが原稿には署名がないので執筆者は不明である。

八 坂 神 社                     

祭 神 速須佐男命

社 格 村社

所在地 大字西潟元字中筋

由 緒 西潟元は古くは喜多郷に属していたので産土神は、朱雀天皇承平六年(936)八月勧請した喜多郷の八坂神社であった。元来西潟元は喜多郷の北東隅にあって地況的に遠く、折々に新川春日川等が出水して、祭日に参拝することが出来なかったので、これを遺憾に思った里人が計って、一条天皇正暦元庚寅年(990)八月現在地に御分霊を勧請した。維新前までは牛頭(ごづ)天王と称していたが、明治二年三月社号を八坂神社と改称した。社僧眞福寺。

祭 典 十月六・七日

 

 

全 讃 史

「全讃史」は「西讃府誌」「南海通記」と共に讃岐の歴史を研究する上に欠かせない歴史書である。この「全讃史」の著者は、讃岐国香川郡池西村大字横井の人で、字は伯鷹、通称は塵(オホカ)といい、姓は中山、城山と号した。初め医を主とし儒を従としていたが、後に儒を主として「全讃史」を著した。

次に抜粋したものは、「全讃史」の全文が漢文のため難解なので、中山城山の後裔である馬場栄一氏が桑田明氏に委嘱して現代風に口訳した、「口訳全讃史」に記録されている、屋島の八坂神社の本社に当たる、木太郷の八坂神社等の起源について抜粋したものである。

巻の五 神祠の上

    式内祠(「延喜式」の神名帳に記録してある神社)

    山田郡

    牛頭天王祠(木太村にある)

一郷の社である。神領五石五斗は古からこれを伝えている。真福寺が祭祀を主どっている。社伝にいう、「正暦元年八月八日、海上に忽ち浮き筏があり、流れ漂うて入江の里(木太の古名)に至った。筏の上には甕があった。土地の人はあやしんで、お上に報告した。

その夜里人の夢に、形は夜叉(鬼)のようで頭に角を戴いているものが現れて言うのに、

「汝らは我を祀ることが出来るなら、あらゆる病気は悉く除けられ、その上長生きが出来ようぞ」と。

翌日里人は相集まって其の夢を語り合ったが、皆同じような事を言った。それで相謀って祠を立て、浮き筏の着いた日を祭日とした。それが現れた地を影向塚(エコウヅカ)といい、今もなお田の中に残っている。その甕で酒を醸すと辛さ甘さが相半ばしてよい味である。後その甕は大水に流され、爪田河の下流に没してしまったので、そこを名づけて甕渕(カメノフチ)という。

 

真 福 寺(木太村に在る)

牛頭天王の祠令である。元亀中、(1570−)僧善誉がこれを修理した。

 

 

神 社 疔 神 社 明 細 書

過ぐる年、八坂神社総代会宮宇地登会長が、京都の八坂神社で屋島の八坂神社の古事について調査したもの。

屋 島 八 坂 神 社

氏子數 四百六世帯  崇敬者數 二百人

由 緒 創立年月日 正暦元年八月八日 神階

    国内神名帳所載

舊社格 村社 明治四十年十月二十四日列格

當社ハ屋島ノ西南ノ麓ニアリ明治維新前牛頭天王ト稱シ奉レルヲ明治二年三月社號ヲ八坂神社ト改稱シ奉リ同四十年十月二十四日神饌幣帛料供進神社ニ指定セラル古老ノ曰ケルハ當社ハ元正暦元年八

月八日勧請シ奉ル讃岐國山田郡喜多郷木太村ノ産土神ニ座シテ西潟元ノ村民モ同ジ氏子ナルガ故ニ崇敬シ奉リ来シガ元来此地ハ喜多ノ郷ノ北隅ニアリテ殊ニ路次ニ二流ノ大川アリテ御大祭等ニ當リ動モスレバ川水ノ困難アリテ参拝スル事得サリシヲ甚ク憂ヒ里人等相議リテ西潟元ノ字内畑ニ一社ヲ建立シテ同社ノ御分霊ヲ斎奉リ産土神ト崇拝シ奉リキ是レ當社ノ創始ナリ

又、宮宇地会長の調査による神社誌によれば、

村 社 八坂神社 屋島町大字西潟元字宮西

祭 神 速須佐男命

由 緒 創建年月詳ならず。伝ふる所によれば、当地もと木太郷に属し木太郷社八坂神社の氏子なりしが、この地木太郷の北隅にありて二流の河川出水等の為参拝屡々困難せしを以て、後その御分霊を西潟元浜畑の地に奉じて當社を創立せりと言う。三代物語に『牛頭天王在西潟本里社里人初以木太牛頭天王為社後別立此社木太眞福寺主其祭』。又『牛頭天王在木太・・・・・・西潟本今別立牛頭天皇祠為里社』とあり。玉藻集に『屋島潟元に往来ノ人天王ノ森ヲ的シテ行ハ道近シ昨日ノ沖ヲ通フ歩人ト口遊ナリ』と見ゆ。當社はもと牛頭天王と稱したりしが明治二年八坂神社と改稱し、同四十年十月二十四日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。 (玉藻集 三代物語 名勝會)

例祭日    十月七日

主なる建造物 本殿 幣殿 拝殿 神饌所 随神門 寳庫 手水舎境内坪数千五十坪

氏子区域及戸数 大字西潟元 六百八十戸

境内神社 天満神社(菅原道眞公)元境外末社なりしを明治二十二年移転して境内神社となす。幸神社(猿田彦命・合祀大己貴命・須佐之男命・大山祇命)もと字成久に鎮座ありしを大正七年移転して境内神社となす。大正十一年字濱畠金刀比羅神社、字成久熊野神社、字谷東山下神社、字古濱金刀比羅神社の四社を合祀す。斧神社(大山祇命・合祀大海津見命)もと字宮西に鎮座ありしを大正七年移転して境内神社となす。大正十一年字宮西荒神社、字古濱塩窯神社を合祀す。

 

 

木 田 郡 誌

昭和十四年十二月二十五日印刷

昭和十五年 一月  五日発行    (非売品)

    香川県教育會木田郡部会郡誌編纂部

            代表者 山 田 弥 三 吉

                高松市南瓦町四一六ノ二

            印刷人 田 村 市 太 郎

            発行所 木田郡教育部会

                香川県教育會木田郡部会長

            発行者 稲 井 唯 一

 

郷 社 八坂神社(屋島の八坂神社と関連するので抜粋)    

鎮 座 木太村字下西原

祭 神 須佐男命

社 殿 本 殿 三間二面(間口十四尺 奥行九尺)

拝 殿 五間二面(桁行三十八尺二寸 梁行十六尺四寸)         入母屋造、軒唐破風一間向拝付本瓦葺

境 内 七百二十九坪境内末社松下神社、北野神社、乾神社、大年神社。四社。

由 緒 寛文の大政所書上に曰く、當牛頭天王は東海道尾張國海西郡門眞庄津島の津より流來り御座候。昔此處を入江郷と申候て、潮の入江あり。或時牛頭天王楠木に乘給ひて、當村の南涯に流上り給ふ。人々見て不思議奇代の思をなし取上候。其の夜領主在所の住人等同一に夢想あり、相語り言う、我牛頭天王なり。我尾張の國より流寄り、當國の衆生の為に濟度と此所に垂跡せり、末世に於て崇敬せし輩は、人馬に至る迄疫病疫癘全く消除すべし。軍陣勝負の時は、後に立ち相守るべし、と告げたりと夢見ぬ。夫より人々相喜び奇代の思をなし、私はじめ信仰すれば願望成就せずと言う事なし。夫より大社を建立し、入江郷を奇代之郷と申候。傳來誤來り木太之郷と申し、今に於て信心厚き人は類疫類病人馬に至る迄御座なく候。惣て國中疫病の時分には、牛頭天王の御寳前に加持祈祷申請候。家々においては其の難を逃るべし。其の外色々申傳候。己上。末社事 東に観音、天照大神、辰己に白山、阿弥陀、南に荒神、又牛頭天王、未申に薬師、又牛頭天王の眷属八万四千六百五十四神勧請致し置き塚あり、西に荒神祭の神、戌亥に權現八王子、北に夷爰に天神、荒神皆是八方に各あり。右之白山權現は牛頭天王と一時に御渡り同有神託我武士家においては守護神となり、信仰厚き人には弓馬の幸あらむと、新に告卒り、其の後領主の家に於て様々具現共有之由に御座候。牛頭天王着岸の時虚空より異甕一つ降り、下村民神酒を作る。甕の内一方甘く、一方辛くして相分る。毎年祭禮の時作り候。其の後當所衰微に及び、洪水の砌屋島の麓に流寄り、其の所を只今甕底と申沼御座候。と申傳候。巳上。その他諸書の記載大同小異なり。生駒壱岐守高俊(名勝圖繪には一正朝臣)田三石七斗餘を賜ひ、伊豫司の時一柳丹波守田を増し、五石五斗五升となし、松平頼重公以後永世變ることなくして明治維新に至り、明治四十年九月二十一日には神饌幣帛供進神社に指定せらる。現在の拝殿は舊眞福寺の本堂を改造して用ひたるものなりと。

 

真 福 寺

木太村にあり。影向山慈眼院と号し、真言宗屋島寺の末寺なり。初め東川辺に、道昌阿闍梨の旧跡ありしを、その後阿闍梨法弟圓阿、先師の掛錫の地ゆゑ村民と謀りて一宇を建立す。天仁年中、当国の目代國宗上総介なるもの修造す。元亀元年火災にかかり、同二年善與法印此の地に移して再興し、往古の寺跡を観音屋鋪と言う。八坂神社の社坊なりしを以て、維新の時廃せらる。

 

村社 八 坂 神 社(潟元天王)

鎮 座 八坂神社

祭 神 速須佐男命

社 殿 本 殿 一間一面(奥行七尺 間口六尺七寸)

    社殿造、屋根檜皮葺

拝 殿 三間三面(桁行四間半 梁行二間半)

    入母屋造、屋根本瓦葺

境 内 千五十坪(民有地)

境内末社 天満神社、外に合併神社あり。

由 緒  三代物語に里人初以木太牛頭天王爲社後別立此社とあり。

當社もと牛頭天王と稱へ來りしを、明治二年三月神佛混淆廢止の際、八坂神社と改称せり。

 

元來西潟元は、木太郷に属し、其の氏神の如きも木太村なる八坂神社なりしが、遠隔なるが上に時々新川・春日川等に出水ありて参詣に困難ありしかば、里人相議りて此の地に一社を建て、氏宮の御分霊を奉齋し、以て西潟元の産土神と崇め奉れり。寛文の大政所書上に曰く、右西潟元は木太郷の内故、往古より木太郷の氏宮牛頭天王と一緒に御座候所に、誰人ならむ勧請仕由に御座候。久しく罷成り候故、勧請の年月存候者無御座候、以上。とあり。

備 考 編者曰く當社鎮座の地は、木太村八坂神社の由緒中に見えたる甕の淵に相當せるものの如し。

 

 

木 太 町 郷 土 誌

発行日 平成7年12月1日

発 行 木太町郷土誌を作る会

執筆者 片岡一夫  葛西 久  帰来耕三  帰来富士子

    島田 治  藤井洋一  前場重信  中井幸比古

    山本正幸

 

入 江 神 社(木太の八坂神社の旧名)

木太は、古くは「入江郷」と稱していた。

そのころ、上福岡あたりから屋島に至る海辺は入江となっていて、香東川が分流して、御坊川や詰田川となって流れ込んでいた。正暦元年(990)八月八日牛頭天王が、楠の槎(イカダ)に乗ってこの入江郷に流れ着いたことから「奇代郷」(キダイゴウ)と呼び改め、その楠から芽が生じたので、喜びが多くある兆しとして、「喜多郷」と稱するようになった。その後、楠木が大きくなるのを見て「木太郷」と稱するようになったといわれれている。(『木太郡誌』)

入江神社(牛頭天王社)の社名は、明治初年に八坂神社と改称された。

 

八 坂 神 社 郷社 本村

祭 神  須佐之男命

相 殿  天照皇大神・天津児屋根命

境内末社 松下神社(大国主命)・北野神社(菅原道真朝臣)・乾神社(猿田彦命)・楠神社(少彦名命)・大年神社(保食神「ウケモチノカミ」)・北西神社(保食神)・護国神社(木太の宮・元木太小学校の忠魂堂)・地神社(保食神)戦没者記念碑・毘慈利護(高野聖「ヒジリゴ」)・棗園大人神・神木(楠の木)など

例 祭  十月七・八日(現在は十月第一土・日曜日)

境 内  四三九五平方メ−トル。

     社殿は、元亀二年(1571)、文久三年(1863)、元治元年(1864)、明治七年(1874)に改修したとある。現在の拝殿は、明治七年別当寺であった真福寺の本堂を移築したものである。最近では平成元年に本殿改修を行い、社務所は同六年に新築された。

由 来  神社は、明治のはじめまで入江神社(イリエジンジャ・牛頭天王社)と呼んで、木太郷の大社であり(『全讃史』)、寛文の『大政所書』によれば、牛頭天王が甕とともに楠の槎に乗って、尾張の国海部郡門真荘津島の津(港)から当地に流れ着き、その地を神の現れた地として影向塚と称し、小社を建立して祀るとある。

     入江神社記では、その年を正暦元年と記している。

     讃岐の藩主生駒家は、社領三石七斗を寄進、寛永七年(1630)から十九年まで、東讃岐を支配した伊予西条藩主一柳家が五石五斗五升に増給(『翁嫗夜話』)、明治初年(1868)まで、別当寺の真福寺(廃寺)が社務を司ってきた。

 

 

牛 頭 天 王 の 信 仰

牛頭天王は、祇園天神ともいって、祇園精舎の守護神であるという。京都の祇園社八坂神社の祭神で、本体は素戔鳴尊である。はじめ播磨国広沢に奉祠されたが、貞観八年(866)僧円如がこれを京都東山に勧請し、勧慶寺とした。疫病を防ぐ神として尊び、その祭りには粟飯を供して御霊会を行った。

一説に牛頭天王は、韓語「そしもり」の訳で、『日本書記』には、素戔鳴尊が彼土の曾戸茂梨(ソトモリ)に赴き給うこととみえ、韓国の牛頭山には天王堂があって、牛頭天王を江原(カンウォン)・慶尚(キョンサン)二道の人がこれを奉祠するという。我が国では、牛頭天王は薬師如来の化神ともいう。(『香川県通史』)

牛頭天王は、平安・鎌倉時代のころから讃岐の国でも広く信仰され、滝宮村の滝宮牛頭天王社、岡本村・法勲寺村・北岡村の五社に及んでいる。(全讃史)中でも、八坂神社の牛頭天王の信仰は格別厚かった。