109 屋島池(通称 藤田池) 

所在地     高松市屋島東町字池尻1437

池の規模    堤長     150メートル

        堤高     3.5メートル

        満水面積   0.37ヘクタール

        貯水量    7.1千立方メートル

        かんがい面積 0.5ヘクタール

築造の由来   江戸時代築造

改築の経緯   昭和15年頃ため池拡張工事

水利慣行等   昔はあったと聞いたが詳細不明。

逸話伝説    無し

木村 昇

    

110 潟元池

所在地     高松市屋島東町字赤牛崎1465

池の規模    堤長     67メートル

        堤高     3.0メートル

        満水面積   0.24ヘクタール

        貯水量    3.9千立方メートル

        かんがい面積 0.3ヘクタール

築造の由来   江戸時代築造

改築の経緯   無し

水利慣行等   昔あったが現在は無し。

実話  

このため池の下に、一人住まいの浜岡のお婆さんが住んでいた。昭和15年のある冬の夜更けに、家の前から女の親子らしい二人の声が聞こえる。

 「お母さんと、一緒に死んで・・・」  「お母さん、はや死ぬことはないんでないんな」

耳をすませて聞いていると、こんな会話が聞こえる。やがて暫くすると、池の方で石を投げ込んだような音が2回した。翌朝になって、女の親子の身投げだと地区の人々の慌ただしい声が聞こえる。近くに住む木村サダエ(この話を語ってくれた人)は舅の、「そんなもんは、見るもんでない」と言う言葉を振り切って池へ駆けつけて見ると、死体は既に西の畑に引き上げられ、綿入れの袖無しを掛けられて、横たわっていた。よく見ると母親らしい人は女の幼子を背負い、並んでその母親の手を握って可愛い女の子が死んでいた。後でわかったことであるが、この女性は引田の人で高級軍人である主人は、この時召集令状により軍隊に入隊していたという。母と手をつないでいた女の子は7才であったという。姑とのおりあいが悪かったからか、どうかはわからないが、その後、夜が更けると、身投げしたような音や、すすり泣きの声が聞こえると、浜岡のお婆さんは早々にこの地を去ってしまったという。この後も地区の人々が、「私も聞いた。私も聞いた」との声が高まったので、舅は友人と語らってこのため池のほとりに、三体の地蔵菩薩石像を建立して土砂加持をして供養した。それから後は、バッタリと不思議な音や声はしなくなった。

これより暫くして池の改修をすることになって、請負業者が地蔵様が邪魔になると、横の方に建てて作業をしていると、人夫の一人が堤防の木を切っていると突然倒れてその枝が人夫の頭に突き刺さり死亡した。これは何かの祟りだと、すぐ地蔵様を元の位置に建てて工事を終えたと言う。今、東の堤防の北よりの所に、三体の地蔵菩薩石像が立っている。

木村 昇・木村サダエ

    

111 山田池(通称 藤本池)

所在地     高松市屋島東町字赤牛崎1471

池の規模    堤長     20メートル

        堤高     2.0メートル

        満水面積   0.008ヘクタール

        貯水量    0.1千立方メートル

        かんがい面積 0.3ヘクタール

築造の由来   江戸時代築造

改築の経緯   無し

水利慣行等   昔あったが現在は無し。

逸話伝説    無し

木村 昇

    

112 藤本上池

所在地     高松市屋島東町字池尻1475

池の規模    堤長     64メートル

        堤高     4メートル

        満水面積   0.12ヘクタール

        貯水量    2.6千立方メートル

        かんがい面積 0.1ヘクタール

築造の由来   江戸時代築造

水利慣行等   現在は無し

逸話伝説    無し

備考      放置状態、ため池の全貌は見えず。

大西頼久

   

 113 和田池

備考      田畑は無し。

木村 昇

    

114 木村池(通称 アシメ池)

所在地     高松市屋島東町字池尻1499

池の規模    堤長     28メートル

        堤高     4.0メートル

        満水面積   0.08ヘクタール

        貯水量    1.7千立方メートル

        かんがい面積 約0.2ヘクタール

築造の由来   江戸時代築造

通称アシメ池と言うのは、屋島で源平合戦が行われた時、源氏の軍がこのため池の辺りを通って、檀の浦の平家の陣屋に攻め込んだ時、足跡を残したことからこの池名がついたらしい。

改築の経緯   無し

水利慣行等   無し

逸話伝説    

寿永四年(1185)2月10日、源義経は軍船糧食を整えて京都を出発し、阿波の勝浦に上陸し屋島の平家を攻撃すべく西へ西へと進軍した。讃岐の国に入ってからは道を旧駅路を選び、馬宿から丹生に出て田面峠を越えて一直線に進み、屋島を目前にして古高松の鞍掛け松の辺りで小休止した。この時、古高松の百姓が飼っている赤牛が海を渡って屋島へ行くことを知り、屋島の平家の陣屋を急襲すべく後藤兵衛父子ら30騎に渡海を命じた。承った30余騎は夜中に赤牛の角に松明を縛りつけ、屋島の波打ち際にたどりついた。この場所は、旧浄土真宗説教所(現在は無い)の辺りであったという。当時のこの辺りは山の際まで潮が押し寄せてきていて、枯木山が迫っていて登るに急峻な所であるが、源家の将士はこれを駆け上がり、アシメ池のほとりを駆け抜けて、檀の浦の平家の陣屋になだれ込んで行った。(この頃のアシメ池は、池と言うより水溜まり位のものであったと言う)

平木一二三

    

115 浜岡池

備考      管理者浜岡萬吉は、子息と同居のため大阪へ移転し、ため池は放置状態である。

平田謙三郎

   

 116 円応池

所在地     高松市屋島東町字池ノ内1739−1

池の規模    堤長     18メートル

        堤高     1.8メートル

        満水面積   0.02ヘクタール

        貯水量    0.3千立方メートル

        かんがい面積 無し

築造の由来等  全く不明

教会主

    

117 下池

所在地     高松市屋島東町字池ノ内1750

池の規模    堤長     110メートル

        堤高     8.0メートル

        満水面積   0.40ヘクタール

        貯水量    17.0千立方メートル

        かんがい面積 上池と併せて約1ヘクタール

築造の由来   江戸時代築造

改築の経緯   約70年前に泥出しをしたが、その他は不明。

逸話伝説    不明

明石栄一

    

118 上池

所在地     高松市屋島東町字池ノ内1753

池の規模    堤長     83メートル

        堤高     3.0メートル

        満水面積   0.23ヘクタール

        貯水量    3.7千立方メートル

        かんがい面積 下池と併せて約1ヘクタール

築造の由来   江戸時代築造

改築の経緯   約70年前に泥出しをしたが、その他は不明。

水利慣行等   不明

逸話伝説    不明

明石栄一

    

119 明石池

所在地     高松市屋島東町字池ノ内1766

池の規模    堤長     28メートル

        堤高     2.0メートル

        満水面積   0.04ヘクタール

        貯水量    0.4千立方メートル

        かんがい面積 無し。

築造の由来   江戸時代築造

改築の経緯   無し

水利慣行等   無し

逸話伝説    無し

明石栄一

    

120 松岡池

所在地     高松市屋島東町字池ノ内1778

池の規模    堤長     23メートル

        堤高     3.0メートル

        満水面積   0.07ヘクタール

        貯水量    1.1千立方メートル

        かんがい面積 無し

築造の由来   江戸時代築造

水利慣行等   無し

逸話伝説    無し

備考      所有権は松岡繁太郎から清水富雄に移転済み。田畑無し。

松岡道子・清水富雄

    

番外  友市池

所在地     高松市屋島東町290  藤岡保夫の家より南東側

築造の由来   大正年間、藤岡保夫の父藤岡友市が、日照りの時用水不足を解消するため所有の田圃に用心池として築造した池。

        池名は、ため池調査の時藤岡保夫が命名した。

藤岡保夫