高松市屋島仲池土地改良区管内
 

 121 瑠璃宝池(通称 血ノ池)

所在地     高松市屋島東町字屋島1812

池の規模    堤長     35メートル

        堤高     2.5メートル

        満水面積   0.15ヘクタール

        貯水量    2.0千立方メートル

        かんがい面積 無し

築造の由来   平安時代築造

嵯峨天皇弘仁元年(810)庚寅二月、弘法大師が北峰の伽藍を南峰に移して屋島寺を建立した時、『遍照金剛 三密行所 當都率天 當院管門』と書き宝珠とともに納めた周囲を池とした。ところが、龍神が珠を奪いにくると伝えられて、瑠璃宝池と呼ばれるようになったと言われている。

また、寿永四年(1185)の屋島の源平合戦の時、屋島の檀の浦で戦った武将たちが、この池で血刀を洗ったため池の水が赤くなったので、それより血の池と呼ばれるようになったと言う。(血の池案内板より抜粋)

また、「源平合戦の時、源氏の勇士の刀を洗いしため水紅色を呈するなりと言へり。寺記に曰く、伽藍草創の時、宝珠を金堂の前、東南方に埋め、其周囲を池となし、瑠璃宝池と言うとぞ」と、昭和15年1月5日発行の木田郡誌にあるので、平成8年10月屋島寺を訪れ、中井龍照住職に尋ねたところ、寺の古文書には池についての古記録は無いと言う。

改築の経緯   無し

水利慣行等   無し

逸話伝説    築造の由来の通り

 

122 山畑池

所在地     高松市屋島中町字山畑39

池の規模    堤長     70メートル

        堤高     3.0メートル

        満水面積   0.16ヘクタール

        貯水量    1.0千立方メートル

        かんがい面積 1.3ヘクタールの用心池。

築造の由来   明治時代の末頃に築造

昔、馬場池より取水していたが、新田開拓が進んで用水の不足をきたすようになったので、山畑池を築造した。

改築の経緯   平成4年頃、ユル故障により底部を埋立てて、常時はゲートボール場として利用し、用水不足が見込まれる時

は貯水して用心池の役目を果たすように改修した。

水利慣行等   昔はあったが現在は無し。

逸話伝説    昔、このため池の西堤防に「砂かけ狸」が棲んでいて、時々、通行人に砂を投げかけていたという。

        平田謙三郎

 

123 馬場池

所在地     高松市屋島中町字新馬場247

池の規模    堤長     62メートル

        堤高     3.0メートル

        満水面積   0.13ヘクタール

        貯水量    2.1千立方メートル

        かんがい面積 裏池、新池と併せて、3.6ヘクタール

築造の由来   江戸時代築造

西嶋八兵衛は、讃岐四代目領主である生駒高俊に招かれて、普請奉行を拝命して寛永七年(1630)から八年にかけて、香東川の川筋付け替え工事や、高松東部の新田開発のため、遠浅の海の埋立て工事に着手し寛永十四年に完成した。これにより、南は新田町の久米池北側の浪波打ち際から、北は屋島山の南麓まで陸地が造成された。

このため屋島山南麓の住居も住人も増加し、新田開発が盛んに行われるようになったので、これら開発された田畑のかんがいのため用水の確保が必要となり、約250年前の延亨年間に仲池・道池(通称 二ツ池 屋島小学校の南)が築造された。

しかし、この後も屋島南麓の東部に向かっての新田開発がすすみ、益々用水の不足をきたすようになったので、これを解消するため、二ツ池の東にため池を築造した。これが馬場池である。

なお、この後も用水の不足が深刻となったので、裏池、新池(三っの池を総称して新馬場本掛池と言う)を築造した。

改築の経緯   

このため池は、築造されてより200年近く経過しているので、その間、堤防の補修などを繰り返してきたが、近年、堤体の漏水や取水施設などの老朽化が目立ち決壊の危険さえ予想されるに至り、国、県、市へ改修工事を要望してきたところ、平成七年度団体営危険ため池整備事業として採択され、改修工事を実施して平成8年3月完成したものである。工費は4000万円。

改築後の規模  堤長     66メートル

        堤高     3.87メートル

        満水面積   0.1ヘクタール

        貯水量    1.8千立方メートル

水利慣行等   

太平洋戦争後、農地解放までは、屋島地区内の地主六名屋島地区外の地主二名と、地区外の地主のうち一名の小作人六名がこのため池から取り水していた。水配分係は地主の総意によって指名し、この係は、各人が苗を植付け後、各水田の植付け状況を勘案しながら、水を配分していた。水配分係に対する報酬やため池に関する諸経費は地主が負担していた。

逸話伝説    

昔は屋島には狸が多く棲んでいた。このため池にも人間を化かしたりしない、愉快な狸が棲んでいた。この狸は、闇夜の晩になると大提灯をつけて堤防を歩いていたと言う。これを見たという人がおるので、本当の話であろうと言う。

だいぶ前のことになるが、ある本によれば、狸が自分の大金玉を担いでいるのが、そう見えるのだそうである。狸の金玉八畳敷きと言われているが、本当は半畳くらいであると言う。

谷口辰男・平田謙三郎

    

124 谷原池

所在地     高松市屋島中町字休所地741−1

池の規模    堤長     15メートル

        堤高     2.0メートル

        満水面積   0.02ヘクタール

        貯水量    0.2千立方メートル

        かんがい面積 耕作水田無し

築造の由来   江戸時代築造

改築の経緯   無し

水利慣行等   無し

逸話伝説    無し

谷原竹次妻

    

 125 道池    153 仲池

道池(通称 新池) 所在地 高松市屋島中町字休所地751

池の規模    堤長     112メートル

        堤高     3.2メートル

        満水面積   0.72ヘクタール

        貯水量    12.6千立方メートル

        かんがい面積 8.0ヘクタール         

仲池(通称 長池) 所在地 高松市屋島西町字浜畠1252の地先

池の規模    堤長     265メートル

        堤高     4.5メートル

        満水面積   1.42ヘクタール

        貯水量    31.9千立方メートル

        かんがい面積 24.0ヘクタール

(註)この二つのため池を総称して、土地の人達は「二つ池」と呼んでいる。          

香川県史 10 資料編近世史料二に所載の「池泉合符録」の片元村の項に、

文政元年(1818)に修正まとめたものに、

仲池 水掛高八十四石四斗五升五合    

道池 水掛高五十石四斗八升三合  

併せて一三四石九斗三升八合とあり、

潟元村字百石は干拓地であったから、日照りの年は塩害は免れなかったので、取高は上田より少なく平均一段一石とみてかんがい面積は、13.4938ヘクタールでなかっただろうか

築造の由来   

昔々屋島は、屋島の檀の浦で源平の合戦があった寿永四年(1185)頃は、周囲を海で囲まれた離島であった。このことは、松平公益会が所蔵の源平合戦の屏風絵を見ても明らかでありまた、宇治原春哲著「久米池構築新川春日川流水変更工事等の考察」によれば、天文十七年(1548)頃は、屋島はまだ島で、久米山には海水が打ち寄せていたと言う。したがって、屋島においてもこの二つ池の麓付近まで潮が押し寄せていたことは、論をまたないであろう。

このような地勢から、昔は、峻険な山にはりつくように作られた段畑にかんがいするため、渓を利用して小さいため池を造成して農業に従事していた。

寛永年中、藤堂高虎の家臣である西嶋八兵衞が、讃岐生駒藩第四代藩主生駒高俊に招かれて、寛永七年(1630)から同八年にかけて、香東川の川筋付け替えや、高松東部の新田開発に勤め、久米池の北岸から屋島南麓までがほぼ陸地に変貌し、屋島の相引には塩田が造成された。

松平頼重が寛永十九年(1642)讃岐松平藩初代藩主となってから、屋島が昔島であった名残を留めようと生駒公が構築した相引の塩田を廃して、正保四年(1647)から慶安元年(1648)にかけて相引川を構築し、この時屋島の百石の新田造成も完成した。これにより、屋島山南麓の平野部では水田、畑などの新田開発がすすみ、このため、水田への用水が屋島山からの流水だけでは不足するようになったので、亨保年間に屋島の中央にため池を築造して、屋島のほぼ中央にあるので「仲池」と命名した。しかし、なお用水の不足をきたすようになったので、仲池の東側の谷間から取り水をして、かんがい用水を確保するとともに農地を水害から守る調整池として仲池の東側に道池を築造した。

このため池を築造の時、昔はこの種の難工事を実施する時は、各地に必ずと言ってよい程人柱伝説が残っているが、屋島ではそれを避けて人柱の替わりに、地蔵菩薩石像を建立したとの言い伝えがあり、現在も道池のほとりに、二体の後背舟型地蔵菩薩石像が建っていることから立証されるであろう。

その一体の亨保九年(1724)と刻されているのが、仲池築造の時のものであり、もう一つの亨保十一年(1726)と刻されているのが、道池築造の時の石像であると言う。

この地蔵菩薩石像は、初めは長池の北東に建立されていたが、後に、蓮井家の辺りの通称ハサミの木(ネリの木)の下に移動し、3回目は仲池・道池の大改修工事の際現在地に祀られた。

改築の経緯  

このため池は、築造以来改築などは、地主や小作人たちが修理をくりかえしてきたが、年を経て、昭和55年に高松市立屋島小学校の運動場拡張工事の時、仲池の2600平方メートルを割愛した。

それより数年を経過して平成時代になって間もなく、さしもの堅固であった仲池・道池も200年余りの年月には抗し難く、最近は日量300立方メートルから500立方メートルくらいの漏水の破目にいたり、かねてから池の改築をと熱望してやまなかった、仲池土地改良区の前の理事長山田守廣の意志を継いで、平成5年に谷口辰男理事長が就任してから精力的に各方面と折衝して、平成の大改築に着工した。

平成4年に仲池の改築に着工、道池は平成5年に着工、いずれも前刃金式工法で、平成7年に完成した。

 工費は、仲池2億385万9000円  道池1億147万円。

 現在この二つ池は面目を一新し、仲池は、憩いの場に休憩所、あずまや、ベンチ19基、便所、公園灯6基、防護柵331メートル。

道池は、ベンチ5基、防護柵、パーゴラ等が設置され、堤防上は遊歩道としてカラー舗装され、植栽としてはサツキ、ヒラドツツジ、アベリアが植えられている。

改築後の規模   仲池                    道池

         貯水量  2万1000立方メートル     1万5000立方メートル

         堤 高  6.2メートル          5.87メートル

         堤 長  269メートル          108メートル

         満水面積 8.0ヘクタール         7.0ヘクタール

         受益面積 6.7ヘクタール         2.9ヘクタール

         関係農家 54戸              17戸

水利慣行    

本掛り水系

琴電志度線潟元踏切りから北へ伸び、八坂神社御旅所から分かれて更に北へ向かい、仲池の下を通って東へ進み、仲池・道池の境界辺りから南下して、長谷川医院の辺りから琴電志度線踏切りまで及びその南の水田は、主として仲池よりの水を用水として割りをする。

大総割り

新川の東の堤防沿いの水路を通る、久米池より通水する琴電志度線潟元踏切りまでの、潟元の農家が利用する用水については、全農家の割りとする。

新端水系

旧国道11号線新川橋の東より南へ、約200メートルの地点に構築の潟元ユルより、新川橋北東の新川出水堀へ送水し、大総割りの用水とともに琴電志度線潟元踏切りまでに送水しこれを割りとする。

西まわり水系

琴電志度線潟元踏切りから、萱端墓地(大橋前墓地)までの水路は、それより西の割りとして、仲池地区西内間を割りとする。

東西水系

琴電志度線潟元踏切りから北東に伸び長谷川病院のあたりまでを東西水系と言い、東西の水田の割りとする。

道池掛り

 本掛り水系より東の水田は、道池用水の割りとする。

本掛り

 長谷川医院より仲池下までを本掛り割りとする。

水利紛争    

昔から水はかけがえのない大切なものであるが、特に農家にとっては命と言うべきものであったので、その大小にかかわらず水利紛争は絶えなかったと思われるが、仲池・道池を水源とし、久米池から分水していた頃、屋島には次のような記録が残っている。

明治10年、田植えの時期になって、新田村・春日村は屋島の百石新開だけは久米池分水の約束に応じて通水したが、東・西両潟元村の残り150石に対して、新田・春日両村が約束を破って通水を拒否したので、西潟元村の仲池係三谷惣四郎他59名と、東潟元村の道池係宮内周吉他二四名が上告人となり、新田村の谷本早太他160名と、春日村の茶岡伝太郎他46名を被告人として、松山裁判所高松支庁へ告訴した。これが有名な「久米池分水訴訟」である。

明治11年4月27日、松山裁判所高松支庁は、「前略・・・・本掛り、新掛りを問わず人添・荒伏の別なく、同一に配水すべきものとす」と判決した。

この判決を不服として被告人の新田・春日側は、大阪上等裁判所に控訴した。翌12年1月31日、大阪上等裁判所は、「前略・・・・前条の理由なるを以て、本訴被告村内間150石の田面は、原告の申立の如く旧慣に従い、久米池水を以て、足水となすを得るといえども、該水を以て各村同等に灌漑するの権利これ無き者なり」と判決した。

今度は被告の新田・春日側に有利な判決になった。両潟元村側はこの判決を不服とし、更に東京上等裁判所に移して裁判を受けることになった。

そこで、明治12年11月12日、大阪上等裁判所は、「前条の理由なるを以て、大阪裁判所が為したる予審および本案の裁判の破毀し、更に東京上等裁判所に移すに因り、其の裁判を受くべきものなり。但し、上告に係る訴訟入費は、被上告人より上告人に償却すべし」と指示した。

この訴訟については、最後の『東京上等裁判所の記録』が見当たらないが、これについて古老は、「両者の間に和解が成立して

訴訟を取り下げた」と伝えている。

(香川県史第一編第六章県政時代の内『久米池分水訴訟記録』より)

仲池伝説   

雨乞い伝説。昔は、日照りが続き水不足が深刻になった時、何処の地区でも雨乞いをしたものであるが、屋島にも古老によりこの記録が残されている。

屋島における俗に「大火を焚く」と言われて、古来旱魃に際して降雨を祈祷して雨乞いした場所は、屋島山南峰の南西の龍王社と、南峰経塚付近及び仲池の堤防上であったと言われている。この三つの場所はいずれも、金刀比羅宮から御神火を火縄に拝受して持ち帰り、点火して大火を焚いた。

仲池では、南堤防上に108個の穴を掘り、割り木松葉を入れて御神火で点火して祈祷したと言う。

その効果については記録に無いのでわからない。

道池伝説

昔々、道池のほとりに若い大工の夫婦がやってきて住みついた。大工は働き者でその妻は絶世の美人であったので、村の若い衆は、いつかこの絶世の美人の若妻を抱きたいと誰もが思っていた。ある日、大工が仕事に出かけたのを見すまして、何人もの若者がかわるがわる妻を姦した。これを悲しんだ若妻は道池に身投げして、西方浄土に旅立って行った。このことがあってからは、大工は仕事も手につかず毎日嘆き悲しんでいたが、ある日妻の後を追って、道池の土手の松で首吊り自殺をしてしまった。これを哀れと思った村の人達は墓を作って、大工夫婦の霊を供養したという。

自然石に「大工の墓」とのみ刻された墓は、今も道池の南堤防上に、人柱伝説の二体の地蔵菩薩石像と並んで祀られている。

参考図書 全讃史     

     香川県史

     木太郡誌

     久米池構築新川春日流水変更工事等の考察の内春日村史年表

     讃岐人物風景                          

谷口辰男

126 下河池

所在地     高松市屋島中町字尾上834

池の規模    堤長     15メートル

        堤高     5.5メートル

        満水面積   0.01ヘクタール

        貯水量    0.19千立方メートル

        かんがい面積 1.0ヘクタール

築造の由来   江戸時代築造。

改築の経緯   昭和40年代に漏水のため改築。

水利慣行等   無し。

逸話伝説    無し。

下河重信

    

127 川六池

所在地     高松市屋島西町字長崎291甲

池の規模    堤長     15メートル

        堤高     2.5メートル

        満水面積   0.06ヘクタール

        貯水量    1.0千立方メートル

        かんがい面積 無し

備考      ため池の底より一面に笹竹が密生し、田畑は無し。

丸山 豊・大前 等

    

128 佐々木池

所在地     高松市屋島西町字長崎乙

池の規模    堤長     15メートル

        堤高     2.0メートル

        満水面積   0.08ヘクタール

        貯水量    1.0千立方メートル

        かんがい面積 無し。

備考      田畑は無し。佐々木平次郎前管理者の孫佐々木義治(82才)は、ため池のあることを知らず。

佐々木義治