著作者の転載許可を得ることが出来たので平成13年5月28日より掲載します。
 著作権は著作者である「河野 広さん」にあります。


「平成ため池考」(四国新聞に平成8年12月3日より4日間連載)

  河 野  広
   宮崎県出身
   農水省九州農業試験場農地利用部長、同農業工学研究所企画連絡室長などを経て、平成3年から香川大学農学部教授
  南九州
短期大学 教養科教授 (平成13年5月 現在)
 
 保全と活用を探る
  1 現状と課題

香川用水さえあれば、県に渇水はないという「早明浦神話」が崩れて久しい。早明浦ダムの貯水率は約2カ月半ぶりに70%を超え、取水制限解除の可能性も出てきたが、長期的にみて厳しい状況に変わりはない。そこでクローズアップされているのが、ため池。父祖伝来の遺産をどう活用するかは、平成の今を生きる私たちに課せられた大きな問題だ。田園環境工学という新しい分野を切り開きつつある香川大学農学部の河野広教授(水資源管理学)に、その保全と活用法について問題提起してもらった。

香川は、面積当たりのため池数密度が、全国一位。古来から、ため池県として知られる。県内の水田面積は78%を占め、全国上位にランクされる。典型的な瀬戸内気候で水不足に悩まされてきた先人が、長い年月をかけて築造してきた1万6千を超えるため池によって気象上の不利な条件を克服したのである。主食であるコメの生産に、いかに大きな情熱を傾けてきたかをうかがい知ることができよう。

県内のため池の総貯水容量は、早明浦ダムの利水・洪水調節容量の56%に相当する。水田は一枚一枚の区画がアゼで囲まれており、わが国水田の全有効貯水容量は、全ダム洪水調節容量の1.4倍の大きさである。水田の洪水調節機能がいかに大きいかは、容易に想像できよう。

水田は、国土保全観点から優れた土地利用形態といえる。

しかし、ため池の多くは、築造後200年〜300年を経過して老朽化が進んでおり、地震時の亀裂発生、漏水による事故が心配される。農村地域の宅地造成の進展などで、雨水の土中侵入度が低下し、ため池への流入が降雨直後に集中するため、余水はけの能力が不足し、台風や豪雨時などに堤防自体の決壊の危険性も増大している。たい積した底泥のしゅんせつ作業が十分でないため、貯水容量も減少している。

この10月、学生の卒業研究で、ため池水質の現地調査に同行した。幾つかは周辺に草が生い茂り、管理が十分でない印象を受けた。混住化の進展にもかかわらず、利用は依然として農業に限定され、しかも農業生産の労力節減が進んだことなどで、管理体制が弱体化したのだろう。

ため池の多くは、家庭排水の流入などで、富栄養化、汚濁が進んでいる。ため池はもともと集水域からの流出水や排水が集まりやすい立地条件にあるため、平野部や市街地近傍に位置するため池にその傾向が強く、農業用水の水質基準を上回っていることが多い。

一世代前まで、子供たちはため池で水浴びをしていた。汚濁が進行し、子供たちにとって危険な遊び場になったのは、ため池の長い歴史に比べると最近のことである。

物質的豊かさを追及する過程で、一見非合理的と思えるものに人々の関心や共有感が薄れ、放置されたり失われるものが多い。古来から地域共有の社会資産として大切に継承され、多面的に利用されてきたため池も、今や地域住民や子供たちにとって親しみを感じる存在ではないようだ。

私たちはこの半世紀の間に、水資源に限りがあることを痛感し水が汚れやすいことを知った。いずれも生活形態や水への関心によるところが大きい。

地域を流れる水は、体の血液に似て生活様式を反映し、環境の健康状態を表している。今、地域水環境の再構築について歴史的経過を踏まえ検討する必要があろう。その際、農耕民族として、古来から自然と共生してきた日本人本来の姿を思い浮かべ、人間活動と環境とのかかわりを開発・前進型から共生・循環型へ転換すべきであると思う。

田園都市香川を構築する過程で、現代に生きる私たちは、ため池の社会的役割をどのように継承・展開していくべきであろうか。専門領域として志向しつつある田園環境工学の視点から、考察したい。

2 ビオトープとして

水田の歴史よりはるかに古くからはぐくまれてきた日本特有の生態系が今、崩壊の危機にさらされている。

かつて、県内でも多く見かけたダルマガエルは、水田やため池など農業生産のために造成された空間(ビオトープ)に生息していたが、今では全国でもごく限られた地域に生息する「希少種」となっている。

野生の生物は絶滅していない限り、その生息環境を与えれば復元するといわれ、ビオトープは21世紀に向けた社会資本整備に欠かせない要素となりつつある。

ビオトープに関し、関東平野の台地上で、木陰にビニールシートで敷いて作った人工池にトンボが住みついて話題になったことがある。また、校庭の一部分を利用して小さな水たまりを作り、自然観察教育をしている事例は、各地に見られる。このほか、たくさんの事例があるが、わが国におけるビオトープへの関心は、歴史が浅く、いまだ小規模にとどまっている。

諸外国では、湿地だった農地を再び元の広大な湿地に戻す自然再生が行われたり、村落再整備計画の一環として、自然保護、景域保全の観点からビオトープのネットワーク化が図られるなど、自然生態系の復活、保全に向け大がかりな事業が進められている。

農業生産性向上の観点から進められてきた土地の開発・造成の考え方に対し、別の側面から人の生活と健康に深いかかわりを持つ自然環境の保全について、大きな関心が寄せられていることを示すものであろう。

ため池は、自然の地形に沿って造られ、長い年月を経て周辺の環境と一体化している。水田や水路に連続しており、本来ビオトープとしての条件に恵まれた貴重な存在である。従って今後のため池の整備は、ビオトープとしての機能を一層高める観点から検討することが望ましい。

例えば、水際の地形が緩やかで陸地の植生から水生植物へ移り変わる推移帯は、微気象変化が大きいため、生息する動植物の種類が多く、自然生態系を豊かにするといわれる。

堤防の一部にそのような推移帯を設けることは、困難ではあるまい。それによって、水辺への人の接近を容易にし、親水性を高めることもできる

今年の夏、高松市中央部の屋敷林でセミが激しく鳴いているのを聞き、わずか数本の木のまとまりから構成される空間に、自然生態系が保全されていることを実感した。

都市の屋敷林は小さな空間であり、ビオトープのネットワークは十分でないうえ、単調な植物群落で構成されている。しかし、生物の生息環境としての条件が満たされれば、なんらかの自然生態系が存在し得ることを示す例であるといえよう。

ため池は、屋敷林に比べ大きく、水、土、植物などの多様な環境要素から構成されている。地域空間に点在するため池の配置は、ビオトープネットワークの拠点として見た場合、まさに絶妙である。

豊かな自然生態系は、多様な生物相をはぐくむとともに、地域空間における物質循環を活性化させ、人の生活環境を健全にする。ビオトープとしてのため池の存在は貴重であり、積極的な保全・活用を図るべきであると思う。

3 水資源として

21世紀の地球は、人口と食糧のバランスにおいて、大変厳しい状況を呈すると考えられている。食糧は現時点で、既に慢性的な不足状態で、多数の人々が飢えに苦しんでいる。今後生産の伸びはほとんど望めないのに対し、人口の増大は当分の間止まらないというのが大方の予測だ。

日本の食糧自給率は、先進国で最低で、かつ依然、低下傾向を示し、世界の食糧と環境に大きな負荷を与えている。

21世紀に向け、日本が自ら食糧の安定的確保を図り、世界の食糧需給安定化に積極的に貢献する必要があることは論をまたない。安全な食糧を適切に供給することについて、日本人の意識改革が求められている。

初夏、上空から見る国土は、緑豊かな森林で覆われ、平野の大部分に水をたたえた水田が広がっている。わが国の水田は、二千年以上、肥沃性を維持し続け、食糧生産と環境保全を調和させてきた。世界的にみて理想的な農地生態系であるといわれるゆえんだ。

ダム方式による水資源開発は、それに要する年数、費用、適地などの点で限界に近付いているといわれる。海水の淡水化は、地球規模のエネルギー事情からみて、特例的手段ではあっても、恒常的、一般的な用水源とする点では慎重な検討が必要だろう。

一方、県内のため池の総貯水量は、約1億5千万トンで、香川用水以後も依然として農業用水の主水源であることに変わりはない。香川用水からの供給水をため池に一時貯留することで、水田の時間的な水需要変動を吸収し、用水の有効利用に役立てている。河川に恵まれない香川にとって、水資源としてのため池の存在は大きい。水の有効利用についてみると、現在、工業用水の回収率は、全国平均で80%に達している。上水道は、新しく建設される大型ビル、公共施設、住宅団地などを対象に、節水対策の一環として、雑用水利用が行われている。このような小さな空間内での水循環利用システムは、既にかなりの実績があり、今後とも進展するものと考えられる。

広域の水循環利用システムの例としては、琵琶湖の周辺水田で、ポンプなどで湖水を再利用する逆水かんがいが古くから行われている。広域的水循環利用システムは、人間活動と環境のかかわりを共生、循環型へ転換する具体的な一つの形態である。ため池の貯水機能は、そのシステムの中核的存在で、水資源問題への寄与は大きい。水田の年間用水量は、上、工、農水など全需要量の約六割を占めるが、その七割は土壌中に浸透し地下水かん養に寄与している。香川用水で増大した地下水をポンプアップし、再度高位部のため池に貯留し、新たな地域共有の水資源として循環利用すれば、用水の一層の有効利用が図られよう。

1グラムの表土の中には1千万〜1億という天文学的な数の微生物が生息しており、その有機物分解能力は国土全体で年間1億トン以上といわれる。ため池と水田がリンクした広域的水循環利用システムで、土壌微生物による壮大な規模の環境浄化が一層促進されれば、化学肥料の抑制を促し、豊かな農地生態系を形成することにつながろう。

4 コミュニティーの場

古来から水田用水路は、地域、集落内を流れる過程で生活用水や防火用水などとしても多面的に利用され、地域共有の貴重な資源として大切に維持管理されてきた。また、水路を流れる水の量的、質的管理制御を通じて、上下流間の人のきずなを強めるとともに、水にまつわる行事などを通じ、利害対立を超越させ、地域コミュニチィーの形成に深くかかわってきた。

「春の小川」として親しまれ、子供にとって快適かつ安全な遊び場であったのだ。

長尾町最大のため池の宮池は、古くから桜や森の緑とが調和する東讃の名勝として広く知られている。2年前、水環境整備事業で岸辺を補強整備するのと併せ、親水ゾーンを造成し、町の有志によって花ショウブが植栽された。

新聞報道によると、今年6月のショウブ祭りは、人出が一段と増え、生産物の販売、各種イベントなどが盛大に行われたという。ため池の貯水機能を保全するとともに、固有の景観と親水空間を創出することで、新たな地域コミュニテチィーの場づくりにため池が活用された例といえよう。

水は、地球上の生命誕生に深いかかわりを持っていることから、生命のルーツであるといわれ、人間のあらゆる思考や行動の根底にも水が関係しているといわれる。人が水辺にひかれて散策し、親しみと安らぎを覚えるのと関連があるのかもしれない。

生物、水辺への接近は、人間の自然回帰の一つであり、心身の健全性を向上させてくれるように思う。コミュニティーの場、親水空間、あるいは田園景観としてのため池には、美しい水をたたえていることが欠かせない。富栄養化、汚濁が進んでいるため池の水質改善に対し、何らかの方策が考えられるべきである。

海外旅行で異文化への魅力を感じるのは、歴史的な建物や街並み、地方の伝統的行事や美しい田園景観である。それらの多くは、長年月にわたる人の働きかけの結果だといわれる。

香川のため池は、まさにその典型である。長い年月の過程で近隣の林や社寺などと一体となって固有の空間を形成し、讃岐平野に広がる美しい田園景観の一つとなっている。また、香川の自然環境や歴史・文化に裏打ちされたかけがいのない地域資源であり、伝説や伝統行事にかかわっていることも多い。

近年、ため池に対する人々の関心が稀薄になり、維持管理がおろそかになるのに伴い、それらの継承体制も弱体化し、歴史的、文化的資産が失われつつある。ため池の保全・整備には、豊かな緑とゆとりある空間を十分活用するとともに、周辺景観や地域固有の歴史的、文化的側面を一体的に検討することが大切だろう。

交通・通信の進歩によって距離感が短縮し、情報伝達が迅速化された現代社会は、小さな地域空間の中で生産、生活などの人間活動が完結する時代ではない。旧来の地域コミュニティーの拘束から解放され、やがて広域コミュニティーへ変ぼうすることだろう。

ため池の保全・活用に当たっても、ビオトープとしての適正配置、水資源として確保すべき容量の視点とともに、ため池の統合管理や整備の多様化など、コミュニティーの変ぼうへの対応が必要だろう。

農村は単なる農業生産の場ではない。都市にはない豊かな緑空間と親水空間をもつ安らぎの場であり、多くの人にとって心の古里でもある。香川において、ため池はそのシンボル的存在であり、保全と活用について、多面的な論議をすべき時であると思う。