屋島のため池調査をおえて                 

香川県農林水産部土地改良課「讃岐のため池誌」編纂室の委嘱と、屋島仲池土地改良区谷口辰男理事長の要請と協力によって、平成8年8月初旬から屋島のため池の調査を開始し、11月下旬に一応調査を完了したので、これを集約することとする。

 

調査の要領

香川県から受領したため池台帳により、池番に沿ってその管理者宅を訪問し、また、管理者が屋島に在住していない向きは地区の長老より、香川県の調査要領による聞き取り調査と、全池を踏査することにした。

   

1 築造の由来

これは、屋島東町、屋島中町、屋島西町(これより東町、中町、西町とする)をとわず、古文書は無く、確たる言い伝えも無かった。屋島山上の瑠璃宝池(血ノ池)については、木太郡誌に、屋島寺に古文書があるらしく記載されていたし、何かあるものと期待していたが、屋島寺住職中井龍照師に面会して尋ねたところ、「そのような古文書は無い」とのことであったので、少々期待はずれであった。

皆一様に築造の時期は江戸時代だろうとのことであったので、ため池が必要となった理由、中心人物の苦心と努力などは全くわからなかった。

   

2 改築の経緯

これらのため池の築造は、殆どが江戸時代らしいとのことであるから、殆どのため池は築造後二百年以上経過していることになるので、何時かの年には改築・修理しているものと思われるが、最近に改修されたため池でも記録が無く、覚えていないと言うので、それ以上の調査を断念した。

   

3 水利慣行と水利紛争

これらについては、水の配分は農家にとって死活問題であり、紛争などはその大小は別としてもあったはずなのに、「あったはずであるが、今は無い」と言う。これは、減反政策で米を作らなくなり、また、後継者不足により、慣行がなくてもどうにか、間にあっているので水不足の危機感がなくなったためだろうか。

   

4 逸話伝説               

中町、西町においては余りないだろうと思っていたが、東町は、かつて源平合戦があったので、これにまつわる伝説があるものと期待していたが全く無く、また、ため池における奇祭も無かった。

   

5 調査時期の遅れ

聞き取り調査の対象としていた管理者の殆どは既に故人となられ、その後継者は60才・70才であるが祖父や父から聞いたことがないらしく、詳細に知る者はいなかった。「祖父が生きていたなら」「父が元気であったら」と各地域で聞いたが、調査時期がせめて10年早ければの感を深くした。

   

6 屋島におけるため池の現状 

屋島は国立公園であり、昔から松が生い茂り風光名媚であることが売り物であることは承知していたが、それでも平素はあまり関心が無く、遠くから眺めて、ただ単に「屋島もだいぶ、松食い虫にやられたの・・・」といったくらいの関心しかなかったが、この調査をするようになってから、山と先祖から継承してきたため池について関心をもつようになってきた。

池番は、屋島東町宮ノ窪から始まっているので、まず宮ノ窪上池から開始した。

私は他人より特別に蛇が嫌いであるから、ゴム長靴を準備して毎日自転車に乗って出かけていった。人通りの少ない東町であるから、なんとなく人目についていたのか、来意を告げると皆快く応対してくれ、私より高齢のお爺さんが、腰を曲げ杖をついて元気にため池を案内してくれたのには恐縮してしまった。石場地区の山にはいると、新道山の手線から上のため池は用水を利用しているとしていないに関係なく、荒れ放題に荒れて水は黒茶色をしている。また、雑木が生えているため池があるし、笹竹が茂って近寄ることもできず、その全貌を見ることができないため池もある。それでも新道山の手線から下は比較的用水を利用しているので、貯水量は堤の高さの5分ノ1から半分もあるため池があり、ため池らしい体裁をしている。

屋島山の南麓あたりの中町では、急峻な場所にあるため池は少なく、比較的中間部や低地にあるので、水がありため池の面目を保っている。

西部の西町では、一部を除いて比較的調査が容易であった。

この四カ月間のため池調査は、現地を踏査をしたり、地区の長老とため池のことを忘れて話し込んだり、家族のことを話したり、私にとって非常に貴重な体験であったので、後日、まとめて記録したいと思っている。

 

 

調 査・編 集                    天野 忠

調 査 協 力  高松市屋島東町土地改良区      木村 昇

監     修  高松市屋島仲池土地改良区 理事長  谷口辰男

                        第一理事 山田 孝