7 檀ノ浦


天智天皇6年冬11月屋島に城を築き要塞と定められた。
その場所が所謂屋島軍団が置かれた所で、軍団のあった関係から昔は団浦と言っていたが、音読によって檀浦と言われるようになった。
源平の屋島合戦当時にも既に檀浦と称していたことは、全性法師が平行盛に与えた玉葉和歌集に掲載されている和歌の前書きに、檀浦とあることによって明らかである。


ここは源平の古戦場で史跡が多く、源平合戦の時安徳天皇の行宮であった安徳天皇社・佐藤忠信によって射殺された菊王丸の墓・平家の落人七人道者の墓など、また、檀の浦の向かいの牟礼町には、那須与一の扇の的、義経の弓流し、歌舞伎でよく上演される景清の錣引き等枚挙に暇がない。


また所謂、平氏の怨霊がこもると言われる平家蟹はここに産すといわれる。

また、この浦を北に行けば海岸に縁取石という珍しい石がある。