46 「屋島の古墳」  故小竹一郎

 

この「屋島の古墳」は、屋島文化協会が発行する『文化屋島』のために故小竹一郎氏が執筆した第7号太古の屋島(三) 屋島の古墳(2)・第8号太古の屋島(四)屋島の古墳(3)から、貴重な研究結果を、広く世人に知ってもらうために再録したものである。


(1)長崎古墳

屋島山の北端にある。台場山の標高50メ−トルの丘の上に南北向きに造られている。

盛土前方後円墳で、後円部の直径約28メ−トル・高さ約2.4メ−トル、前方部の幅約12メ−トル・高さ約1.2メ−トルで、元の形をよく残している。現在後円部の中央に掘穴の跡があり、その横に石造りの小祠を祀ってある。付近には安山岩質の石塊が散乱し、盛土や葺石はかなり流出しているが、後円部の後面と東側面には葺石が2段あるいは3段に葺かれた跡が見られる。

明治初年に、一度発掘された当時の模様について、木田郡誌には次のようにつたえている。

「発掘時には、庄屋・政所等立会し、後円部を六、七尺掘り下れば、掘抜式の石棺あり、蓋石を破壊して、中を見るに、頭を北東にして臥せりと思わるる人骨あり、棺中に刀二振、鍔一箇・直径約二五センチ程の太さに錆び固まりたる矢の根あり。棺身には、石枕のみならず、脚の部まで、形を彫付けありし」と。

長崎古墳の築造年代については、古墳時代中期のものと見られている。

また、古墳は、一般的には、農業共同体の基礎の上に営まれた、と考えられているが、この長崎古墳は、農耕地とは、はなれた所に孤立して造られているので、どんな背景のもとに造られた古墳であるかが、問題とされている。




(2)浜北1号古墳

屋島西町浜北の禿山と呼ばれている標高約30メ−トルの、小さい丘に、古墳が3基ある。

そのうちの1号古墳は、丘の頂にある盛土前方後円墳で、墳丘の軸長約30メ−トル・後円部の直径約16メ−トル・高さ1.8メ−トル・前方部の幅約8メ−トルである。葺石は殆ど失われているが、尚所々に残っている。規模は小さいが、攪乱されずもとの形を残している貴重な古墳である。

 


 

(3)浜北2号古墳

浜北1号古墳の北隣にならんでいる。

盛土円墳で、墳丘の直径約15メ−トル・高さ約2メ−トルで、封土はかなり流出して葺石は見られない。

昭和47年6月この墳域から、土師器1箇を出土した。小さい古墳で、内部構造もわからないが、須恵器を用いた時代のものより、築造年代が古いもののようである。




 (4)浜北3号古墳

浜北2古墳の西側下方、約50メ−トルの、西に面した傾斜地にある。盛土円墳で昭和9年2月松株を掘りとったとき、破壊されて、組合せ箱式石棺があらわれ、中に遺体が納められていたという。

現在は、墳丘の中央部で垂直に西半分が削りとられ、その断面にこわれた石棺の一部が露出している。



(5)中筋北古墳跡

屋島西町中筋不動堂の裏の、標高40メ−トルの小さい丘にある。盛土円墳で、墳丘は山肌と区別ができないほど、流失している。明治初年に発掘されて、組合せ箱式石棺があらわれ、その中から腐蝕した刀剣数振を出土したという。現在この古墳は、墳丘も石棺も失われてしまっている。


(6)谷東古墳

屋島西町・農協学園グランドの上方善光寺横で、屋島山麓の南東に面した傾斜地の山林にある。横穴式石室のある盛土円墳であるが、封土は山肌と区別できないほど流失して、墳丘の大きさはわからない。

横穴式石室は玄室の奥壁に近い部分が一部残っているが、内部には天井石の近くまで土砂がつもっている。


(7)中央西古墳

屋島西町中央、屋島小学校の西方、約100メ−トルの畑の西隅にある。盛土円墳で封土は失われ、横穴式石室も崩壊して、玄室の基部がのこり、その上に天井石などの巨石が集積している。玄室の奥行は約5メ−トルで、羨道の部分は失われている。



(8)中央東古墳跡

屋島小学校の北西方約30メ−トルの水田の隅にあった。

盛土円墳で奥行4.6メ−トルの、横穴式石室の玄室の部分をのこし、羨道の部分は失われていた。

昭和43年に宅地造成のため、この古墳は失われた。そのとき、須恵器の瓶1箇を出土した。

この古墳のあった場所は、現在の屋島西町1119−6、赤松幹男宅の東南隅である。

 



(9)東山地1号古墳

屋島中町東山地の丸山と呼ばれている丘に、古墳が2基ならんでいる。

東側にあるのが1号古墳で盛土円墳であるが、封土は流出して蓋石を失った、組合せ箱式石棺が露出している。この石棺の上に、台座を築いて石造りの小祠をまつってある。石棺の半分は台座におおわれ、残りの半分は台座の前に見えている。明治初年に発掘され刀剣・須恵器のつぼ・曲玉など出土したと伝えられている。

 



(10)東山地2号古墳

1号古墳の西側に並んでいるのが2号古墳で、盛土円墳であるが、封土は流出してわずかに墳形をのこし、所々に葺石が見られる。明治初年に発掘され、人骨・刀剣を出土したと伝えられている。墳丘の直径は約10メ−トルで、現在この墳丘の中央に、金比羅神社をおまつりしている。

 



(11)三崎古墳群跡

屋島東町三崎湯の谷西側の、高根座と呼ばれている小さい

丘がある。頂上に2基南西の斜面に1基いずれも盛土円墳であった。明治初年にこの付近が開墾されたとき、破壊されて失われた。その時、須恵器が数個出土したことが知られている。

この古墳群は、古墳時代末期のもので、万塚ともいわれるものである。



(12)経塚下古墳

屋島東町高根座の北東約300メ−トル、屋島山の山尾が、南東に延びた中腹にある。

円墳で、墳丘の直径は約10メ−トル・高さ約1.5メ−トルで、墳丘の中央に直径2メ−トル・深さ約1メ−トルの掘穴があって、攪乱の跡を物語っている。




(13)萩山古墳跡

屋島東町藤目萩山の北側の窪地にあった盛土円墳である。

明治年間に発掘され、組合せ箱式石棺の中に、人骨が納められていたことが知られている。この古墳は、その時破壊されて失われた。


(14)浜北4号古墳

屋島西町浜北の塩釜神社の裏山にある。標高は約40メ−トル、山尾の稜線上に造られた盛土前方後円墳で、規模は小さく墳丘の盛土もかなり流失しているが、攪乱の跡は見られない。墳丘は北から南に延びた稜線上に、後円部を北にし、前方部を南に向けて築造され、墳丘の軸長は約16メ−トル、後円部の直径は約8メ−トル、前方部の幅は約7メ−トルである。墳丘の基部に並べられていた葺石は、前方部にわずかに見られる外は、ほとんど失われている。