光 源 と 電 気                     

 

昔、光源として使用していたものは、肥松の根っこやコクバ(枯れ松葉)であっただろうと推測できるが、これに灯油がとって替わってから、大正10年頃に大橋前地区に電灯が点灯されるまでの相当長期間は、先人によって発明された、照明用器具によって永い間これの恩恵に浴してきた。          

 

提 灯 (チョウチン)

これは現在でも、映画テレビに屡登場するので使用方法は熟知しているとであろう。

 

手 燭 (テショク・燭台ショクダイ)     

今日の懐中電灯に相当するもの。

 

小点火 (コトボシ)

夜、風呂場等で使用する小型のランプ。

 

卓上ランプ

夜、勉強する時に使用する、現在の電気スタンドに相当するもの。

 

吊りランプ

居間・座敷等で使用していた。これは使用後はホヤに黒い煤が付くので、掃除は手が小さいからと何時も子供の仕事であったが、ホヤはガラスが薄いので失敗して時々壊すことがあった。

 

龕 燈 (ガンドウ)

夜、子供が屋外で遊ぶ時等に使用していた。

(註)これらは、どのような時どのような場所で使用しても差支えは無いので、使用場所の特定はない。

 

高松藩松平家重臣牛窪勘兵衞雅男の子求馬が、明治26年発起人となり、松平頼聡や中野武営の援助を得て電気事業を計画し、明治28年4月資本金5万円で高松電灯株式会社を設立し、同年11月送電を開始した。利用戸数は高松市街の中心部のみの295戸で、電灯料は10燭光1灯分1ケ月1円50銭(当時の経済事情 米1升8銭酒1升15銭)であった。

佐々木義治氏によれば、大橋前地区に電灯が点灯されたのは、大正10年頃であったと言うので、初めて高松に点灯されてから、約30年も経過してのことであった。

その頃、会社から送電する方法は、定額制と終夜制があって、定額制は、10燭光の電灯1個1ケ月幾らと金額が決められていて、夕方暗くなれば点灯し、朝がくれば消灯する。これは会社が操作するのであるから、加入者の全戸が一斉に点滅すること

になる。勿論季節によってその点消灯時刻は違っていた。

一般家庭では定額制が殆どで、夜、台所で食事をすますと、皆が一服する部屋へ電灯線を引っ張って行き、他の部屋で何かをする時は、従来通りランプを使用していた。

その頃の子供は学校から帰ると鞄を投げ出して、遊びに出かけたものであるが、その時、あまり遅くまで遊ぶなよとの意味をこめて、「電気がつくまでに帰れよ・・・」と言われたものである。

又、終夜制は、たくさん電気を消費する店舗などが利用する制度であったが、ラジオが普及しはじめてからは、一般家庭でもこれを利用するようになった。しかし、ラジオは貴重品であったから、町内で金持ちといわれる僅かな家しか持てなかった。

   

電気にまつわるこんな嘘のような実話二題。

「今晩、喜多の旦那さんから、ラジオを聞きに来いいう案内があったけん行てくるわ・・・」

座敷へ通されると、たくさんの顔見知りが来ている。

やがて旦那さんが出てきて、

「電気はきとんじゃけど、まだ放送しとらんけん、まぁ、一服しょっていた」

立派な床の間の近くの机の上に、箱が置いてある。

やがて、大奥さんがで出てきて、

「皆さん、ご苦労さんでござんす、何茶無いけど放送が始まるまで、一杯やっていた」

皆が遠慮なく一杯やっていると、

「皆ちょっと静かにしていた、もう始まるけんの・・・」

間もなく箱の上の大きいラッパからガーガーピーピーと音がして何やら聞こえだした。

帰って来たお爺さんは、娘に、

「長生きせないかんもんじゃの、ラッパが物言うたん初めて聞いたわ」

  

もう一つ電気にまつわる話。

このお爺さんが町へ出て、活動写真館(映画館)の前を通ると、木戸番の呼び込みが、

「今、ええとこじゃ、金魚が泳ぎだすとこじゃ、もうちょっとしたら、汽車も動き出すとこじゃ」

これにつられて、木戸銭を払って暗い大きい部屋に入ると、なるほど前の大きい壁に金魚が泳いでいる。

帰って来て、娘に、

「大したもんじゃ、大きい壁に金魚が写っとたんじゃけど、それが動くんじゃ」

このお爺さんは慶応3年生れの私の祖父で、娘は私の母である。