天 皇 講                        

 

八坂神社は、朱雀天皇承平6年(936)、木太村の八坂神社の分霊を屋島へ奉戴してより後、明治2年3月に社名が八坂神社と改称されるまでは、牛頭天王社と称され、この社のことを、土地の人々は親しんでテンノサンと呼んでいた。

昭和時代になって、土地の氏神様を崇める講中を作ろうと、大橋前地区では、昭和3年12月天皇講を組織した。

牛頭天王を祀るのに天皇講としたのは、音読みが同じであるから、誤ってこの字を当てたのかもしれない。

お祭りは、毎年3月11日から15日までの間、講中の人々によって行われていた。

 

当時の講中の人は次の通りである。

蓮井為三郎  中村松次郎  佐々木松太郎  中条多市  氏部直吉  佐々木義治  

中条清行   山地繁太郎  細川正直  鎌野梅吉  山地栄吉  東原光次郎

鎌野市次   桝谷磯平   東原信次  谷口好吉  江浪武八  森田為吉 

高杉和三郎  佐々木伴次  森田市次  高杉茂太郎  佐々木久吉  藤村実次  

堤 勘次   佐々木都重  中村嘉次郎  佐々木八百八             以上28名


この講中の行事の中心となるものに、掛軸があった。

天皇講掛軸

 表  素戔鳴尊(縦書・墨絵)

 裏  文  書(縦書次のとおり)

素戔鳴尊適於根國之圖似鍾馗戴茅蒲者也見性禅寺徳充和尚一時之碩徳亦極善画與余相厚善一日往請曰敢煩和尚曰是易耳援筆立成傳神冩照甚精妙乃装 蔵諸木大郷神 云肥人之裔有菊池七兵衞者天文中委質於北條氏康居相州小田原及其亡也其子七兵衞從氏直入高野山薙髪號安枕會氏直薨老於京師土方河内守雄久賜田若干以終餘年安矣枕生元春仕本多縫殿助康俊江州膳所主也至其子庄次郎為大夫世祿至今從大夫之列元春有 子曰八右衞門武俊仕石川主殿頭在江戸邸有故 轉容於讃植根於木太郷郷里呼曰江戸八右衞門配増田氏(小田原長清後)生先人冒舅氏曰増田太兵衞(後號宗悦)歴事 英公(松平頼重)

節公(頼常)事而免退而閑居于木太郷娶朝比奈氏生十一子伯林意(太兵衞雅宅)仲僧雲晴(行徳院院主)季武賢(八右衞門一名庭實)阿州大守源公宗鎮賜 稟及黄金老於高松其四人 世四女咸嫁士人各有子有孫有曽孫休意娶宮崎氏生二男長忠起為佐野氏嗣次雅居冒

(太兵衞)其家政娶三好氏有子長女次庄太郎次女季徳次郎武賢配久保氏武徳(安之丞)武穀(周哲)及三女其子孫内外男女現存者三十有五人枝葉蕃茂如此况武賢之無材無藝兄弟之行在第十一幸免於餓寒弛於負擔 楽其楽者皆 神之賜也欲報之徳昊天罔極今且留 神影於将來以示不忘其本鳥爾

延亨改元甲子冬十有一月望日

   東 城天山居士楽 叟菊池武賢再拝稽首撰